小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

6 名君の碑 保科正之の生涯 中村 彰彦(1988)

【あらすじ】

 滅亡した北条家の旧臣に生まれたお静は江戸城に侍女として仕え、二代将軍となる秀忠に見初められて懐妊する。しかし嫉妬深い秀忠の正室お江与の方の迫害から逃れるため江戸城から立ち去る。一度は子を流したが、秀忠の願いで再度登城し懐妊した時は、今度は生む決意をして、以前親切にしてもらった武田信玄の次女である見性院穴山梅雪正室)に保護と養育を依頼する。

 

 見性院幸松と名付けた子を可愛がるが、将軍の子を女子が育てるのはふさわしくないと感じ、武田家でも武勇の名高い、高遠藩主保科正光に預ける。幕閣の意向も確認した正光は幸松を養子とし、学問だけでなく武士として、そして領主としての教育を施す。幸松もその思いに応え、自らの境遇に恨まない「足るを知る」人間に成長する。

 

 幸松の出生は土井利勝など幕閣でも数人にしか知らされず、三代将軍家光も当初は幸松を知らなかったが、ひょんなことから存在を知り、注意深く見守っていた。このころ同母弟の忠長駿河大納言)は、自らに100万石か大坂城を求めるなど傲慢に育ってしまったこともあり、父秀忠は新たな異母弟との対面を避け、家光も我儘な弟の始末に苦慮し、自害させていた。

 

 幸松は忠長とは違い、決して自らの素性に驕ることなく控えめで、かつ聡明な人物に育っていた。幸松を信用した家光は保科正之の名乗りで元服させ、高遠3万石の家督を譲ることを許し、機会を見つけては弟としての待遇を整えようとする。そして正之もその期待に応えていった。

 

  保科正之ウィキペディア

 

 その後正之は出羽国山形藩20万石を拝領した。前藩主が過酷な支配をしたために一揆が起きて、高遠と交代になったが、正之は養父正光から学んだ領地経営で善政を施し、領地経営は安定した。反対に高遠では過酷な支配が行なわれ、3千人に上る高遠の領民が逃散し、正之の後を追って山形に行ってしまう

 

 山形藩を支配して7年後。会津藩でお家騒動が勃発し、その後釜として会津23万石を拝領して善政を施すが、次第に3代将軍家光、そして家光が死の床で託した4代将軍家綱が、正之を補佐役として側から離さなかったために、20年以上もお国入りができなくなった。

 

 秀忠、家光と続いた武断政治は多数の牢人を生みだし、世情不安の原因となったため、正之は文治政治への転換を決断する。大名改易の主因となっていた「末期養子」(後継者を定めないまま亡くなった時に、死んだあとに届けること)の禁止を緩和して、即改易には至らせないようにした。また大名家族を人質とする制度や殉死も廃止。玉川上水の掘削を推進して、庶民が住みやすい街作りを優先する。そして明暦の大火の後始末として江戸の復興と米価の安定に全力を上げるが、一方で天守閣の再建は費用がかかるとして据え置いた。

 

 将軍家に尽くした正之も年を重ね失明に至り、ついに補佐役から免除される。23年振りに会津に国入りすることができた正之は、63歳で死去する。

 

【感想】

 将軍の子として生れながら、その命が狙われる過酷な運命に晒された幼年期の保科正之。但しその命は母お静の弟神尾才兵衛が、自分の身を引いてまで説得して生ませ、頼られた見性院と妹の信松院によって育てられ、そして戦国の名残を持つ領主保科正光の元で、領主としての責任を教えられて成長する。正之は優しい人たちの「リレー」によって、将軍の子でありながら控えめで無私、そしてアイディア溢れ果断にも優れた補佐役となり、武断政治から文治政治へと舵を切って江戸幕府を運営していく。

 

  *父、徳川秀忠ウィキペディア

 

 そんな保科正之だが、藩主としての善政も数多い。会津藩でも年貢を引き下げ、豊作の時は米を蓄えて飢饉時の貧農・窮民の救済のため社倉制を創設し、90歳以上の高齢者には1人扶持を与えて敬うなど現在の年金制度の先駆けと言われる施策を行なう。一方産子殺しを禁止することで、会津藩は徐々に人口が増えていった。

 教育にも力を入れて家臣の育成に務め、幕末まで繋がる尚武の藩風を作りあげる。それは正之が江戸で不在の中、高遠から正之に付き従った名家老・田中正玄に寄るところも多く、田中正玄は尾張成瀬隼人、紀州安藤帯刀とともに「天下の三家老」とも言われた。

 家光は死の間際に、萌黄色の直垂と鳥帽子を与えた。家光が好んでいたため、ほかの大名が遠慮していた色だが、正之は将軍と同格と認めた。家光は死の床で、正之を枕頭に呼び寄せ、自らの口で「肥後(正之)よ、宗家を頼みおく」と遺言した。これに感銘した正之は寛文8年(1668年)に「会津家訓十五箇条」を定めた。第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記す。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を特に固く守り、最後まで薩長軍と戦った。

 正室菊姫が亡くなった後側室となったお万の方は、9人の子を産んだが長命の子は少なく、また別の側室が生んだ子が加賀百万石に嫁ぐことを嫉妬して毒殺しようとするが、誤って自らの子を死に至らしめた逸話がある。母お静と自らが幼い時に遭遇した運命に、年老いてからも輪廻のように遭遇するのは余りにも過酷。正之が領内で産子殺しを禁じた事は、深い意味がありそうに思える。

 正之は幕府より松平姓を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義からこれを固辞し、生涯保科姓を通した。松平姓と葵の紋を使用し、親藩に列されるのは、正之の孫の代になってから。いかにもこの人らしいエピソードである。

 

  

 *「土津公保科正之の墓(Japan 47 Goより)

 

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