小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

11 天下商人 大岡越前と三井一族 高任 和夫(2010)

   Amazonより(講談社

 

【あらすじ】

 親類筋の縁坐もあって出世コースから外れていた旗本の大岡忠相だが、真面目な仕事振りで認められ、使番から目付へと就任して、本来は「あがり」の役職の山田奉行の拝命を受ける。隣国紀伊藩との境界争いにおいて、将軍家に近い紀伊藩に忖度する奉行が多い中、忠相は公平な捌きを心がけた。そんな忠相を時の紀伊藩主徳川吉宗は、公事(裁き)に興味を持ってことから注目していた。

 

 忠相は江戸に戻ると普請奉行となり、8代将軍吉宗によって解任された新井白石が屋敷の明け渡しに抵抗する時も筋を通した。忠相の人物を認めた将軍吉宗は、江戸の「知事」とも言える南町奉行に、2階級特進の形で抜擢する。

 

 忠相はまず訴えの約9割を占める金銭の争いを、「相対済令」として奉行所は関与しない方針を定めた。その代わりに、将軍吉宗から求められた政策を次々と実行に移す。防火体制を整備して、屋根を瓦葺きにすることを奨励。目安箱に届いた施薬院の設置を求める献策を、小石川養生所の設置という形で具体化した。更に青木昆陽の噂を聞いて、甘藷の栽培を推し進め、飢饉への備えを行う。

 

 しかし幕府は財政危機が切迫していた。縁があった「貨幣吹替え」で有名な荻原重秀の子、乗秀から父の施策を聞いていざという時に備える。一方新田開発までも、畑違いにもかかわらず吉宗から命じられて、忠相とその部下たちは休む間もない状況だった。

 

   大岡忠相ウィキペディアより)

 

 そんな折、越後屋の創業者三井高利が一代で築いた三井家では、子の三井高平が守成の苦しみを味わっていた。三井家は伊勢出身で紀伊藩とは誼が深く、幕閣の情報をいち早く集めていた。しかし大岡忠相からは、豪商たちが物資を溜め込み価格を操っているため米価や諸物価が高騰し、市民の暮しが厳しくなっていると疑いがかけられた。

 

 幕府は上知令を布告し、各藩から米を募ることで急場を凌ぐ。代わりに参勤交代の期間を短縮して江戸の人口を抑え、高騰していた米の価格を抑えることに成功した。ところが諸藩も金詰まりのために、米を貨幣に替えたため、米が大暴落して今度は米で俸禄をもらう旗本の暮らしが立ちゆかなくなる。

 

 「貨幣吹替え」によって「金詰まり」の状況を打破するしかないと考える忠相に対し、貨幣の質を落とすことに抵抗する将軍吉宗。何度もぶつかった末に、ようやく吹替えが認められると、忠相は合わせて金銀の交換比率も変更して、大坂の物資が江戸に流れることも目論んだ。

 

 しかし思い通りの交換レートに落ち着かないことに業を煮やした忠相は、豪商の手代を牢に入れる強引なやり方を駆使して、商人たちに要求を呑ませようとする。最後に三井家高平が忠相の前に現われ、三井は相場を操る力もなければ必要もないと説明して、忠相の誤解を解く。三井家も貨幣改鋳及び大岡忠相は、世の中に必要と考えていた。

 

 

【感想】

 三井物産出身の経済小説作家、高任和夫が三井一族の創業期の歴史に触れるのは必然だったのだろう。越後屋を一代で築いた三井高利は、江戸と大坂の金銀交換に生じる莫大な手数料を、他家の両替商に与えるのは馬鹿らしくなり、両替商の株を取得して自ら両替する。これでその後明治まで続く越後屋と両替の「2本の柱」が築かれた。

 大岡忠相がこの機に行なった貨幣改鋳によって、三井家は年間の総利益に匹敵する儲けを生みだす。またデフレからインフレに変わったところで、呉服商越後屋も売上が5割増しとなり、利益も通常の3年分に匹敵した。幕府の100分の1の人数で、その4分の1の「売上」を確保する豪商に成長した三井本家。二代目三井高平は、徳川が滅んでも三井は生き残らなくてはならないと念じ、その通りになった。

 

  *三井高平(三井広報委員会HP)

 

 三井の系譜を継いだ三井物産は、その後も政策の変動を利用して、国家の意向に反して差益を儲ける。第一次大戦時のインフレやその後の不況で鈴木商店が倒産した時代、昭和初期に金解禁によるデフレ政策から高橋是清によるインフレ政策に転換する時代。そしてニクソンショックの際にも、通貨交換停止の抜け穴を利用して、大蔵省の思惑を超えて大儲けしている。

 対して大岡忠相について本作品では「大岡政談」はほとんど触れず、行政官として右往左往している姿を見せている。先に東京都「知事」並みと書いたが、将軍吉宗の意向を実現するために、経済、金融、貨幣、物価、新田開発、医療、新種開発などまで手を広げている。そんな目の前の業務を進めていくにつれて、自分なりの理想がだんだんと見えて、吉宗と意見を異にする場面が増えてくる。

 これは大岡忠相が「テクノクラート(行政官)」から「ステーツマン(政治家)」へと成長した証。対して吉宗も忠相と意見を激しく戦わせながら、感情に任せて追放や左遷はしなかった。通常は4~5年の任期で交替する町奉行の職を20年という異例の長さを勤め上げ、最後は大名が務める役職の寺社奉行に抜擢して、その労に報いた。

 温故知新。公事(訴え)を減らすための相対済令は、現代の民事不介入に通じる。大岡忠相の手がけた政策は、現在の内閣の政治を丸ごと網羅するもの。本作品はそのことを、三井家の視点も入れることで、見事に紐解いてくれた。

 

 

*「大岡越前」の代名詞とも言える加藤剛さんは、平成の30年に死去(日刊ゲンダイ

 

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