小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

10 知の巨人 荻生徂徠伝 佐藤 雅美(2014)

【あらすじ】

 父は館山藩主の徳川綱吉から言われなき勘気を被り、江戸を追放されて上総国の片田舎に流さる。子の荻生徂徠は乏しい書物を独学で読み下して、旺盛な向学心を満たしていた。すると突然に父が赦免され、徂徠は単身江戸に戻り、芝は増上寺の近くの豆腐屋の裏手の長屋に塾を開く。しかし徂徠は独学で学んだため、漢文をレ点、返り点を使わない「従頭直下」、頭から下に読む方法に固執し、来塾希望者も退散してしまう。しまいには食事にも不自由して、裏手の豆腐屋から施しを受けるほどの窮乏状態になる。

 

   しかし徐々に独特の教え方と知識が評判になり、学問好きで五代将軍となった鋼吉の側近、柳沢吉保が徂徠を招く。当初は小禄で、朝6時から夜10時までひたすら漢書素読を門人にさせる日々が続くため、自らの研究時間がないことに苛立ちを覚えていた。しかし将軍綱吉が行う講義に参列した際、自分なりの解釈を答えて鋼吉から認められ、徐々に加増されていく。

 

  朝から晩までの素読から解放されて、徂徠はかねてから望んでいた、漢書を原語の「唐音」で読むことに取り組む。唐音が話せる学者に師事し、仲間と切瑳琢磨して知識を高めていく。その仲間には、後の儒学界に足跡を残す俊英が集っていた。但しそのため、従来の解釈を求める「御用学者」らとは、距離を置くことになる。

 

 鋼吉の側用人として、甲斐20万石に出世した柳沢吉保に付き従い学究に励むが、間もなく将軍鋼吉が亡くなり、柳沢吉保も失脚する。儒学者の役割はなくなり、領地ではなく江戸の町での生活を許され、日本橋茅場町に居を移し、そこで町名にちなんだ私塾・蘐園を開いた。

 

  荻生徂徠東京大学所蔵)

 

 綱吉死後に台頭した儒学者新井白石は、一大勢力を築いた荻生徂徠を徹底的に「無視」する。その白石も、紀州藩徳川吉宗が8代将軍に就任すると、真っ先に幕閣から駆逐された。法典にも財政にも一家言ある吉宗は、白石時代に幕閣から遠ざかっていた荻生徂徠に意見を求めた。

 

 堯舜の時代から孔子までの「聖人」を取り上げて「農本主義」を確立していた徂徠は、有能な人材を抜擢する足高の制の推進を勧め、貨幣改鋳では吉宗の「デフレ政策」に対して批判的な意見を示し、上げ米については中止すべしとの態度を述べた。

 

 しかし吉宗も徂徠も共に、考えは保守的にとらわれ、新たな経済の仕組みを作りあげる構想までは至らなかった。徂徠は吉宗から仕官を求められるが、柳沢家から500石の知遇を得ている手前、手のひらを返すような決断はできず、再三固辞することになる。

 徂徠は太宰春台服部南郭山県周南など、多くの門人を育てて63歳で亡くなる。

 

 

 

 

【感想】

 荻生徂徠は古代中国の書物を読み解くものとし、「古文辞学」として日本の訓読みを許さず、唐音で読むことで初めて、本来の意味が理解できるとした。そのため比較的新しい朱子学からなる古文の解釈を批判することで、日本の儒学界で一大勢力を成す。徂徠から批判を受けた朱子学側は、徂徠亡き後幕府公営の昌平坂学問所を擁する林家が反撃を行ない、後の老中松平定信は、朱子学以外の学問を禁止する「寛政異学の禁」を発布して朱子学の復興を目指した、

 しかし家康が幕府の守護を期待した朱子学が、徂徠によって受けた傷は深かった。また徂徠が提唱した「古から学ぶ」姿勢は中国だけでなく日本国内にも向かう。

 朱子学純化させて、藩の財政を傾けてまで大日本史を編纂した水戸学朱子学から派生して神道と融合させた山崎闇斎保科正之。徂徠の古文辞学を日本の歴史に求め、古事記日本書紀の思想を昇華させた本居宣長などの国学。これらが当初の「軌道」から外れて尊皇思想を生み、遂には江戸幕府を倒す「大政奉還・王政復古」のエネルギーになっていく。幕末へ向けた「伏線」は財政危機とともに、この頃から敷かれていった

 ちなみに蘐園塾の隣に俳人宝井其角が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」との句が残っている。また「徂徠豆腐」と呼ばれる落語の題材にもされて、学者でありながら市井の話題に顔を出す。学問は秀でているが、幕閣で権勢を振るうわけでもなく、近所の「頑固ジジイ」的な存在だったのかもしれない。

 貧しい学者時代に支援してくれた豆腐屋が、赤穂浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは、江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある」と語り豆腐屋も納得した。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉がオチになる(ちなみにこの落語には「上り坂、下り坂、まさか」の3つの坂も触れられている)。

 

  徳川綱吉ウィキペディア

 

 本作品の作者佐藤雅美は、陪臣が幕府の政道(赤穂浪士の処分)に口が挟むわけはない、としてこの落語の話も架空と断じたが、果たしてそう断じられるか。以前から徂徠の意見を面白がり、学問については上下の区別なく真っ直ぐだった綱吉からすれば、困った時は徂徠の意見も、例え柳沢吉保経由でも聞いていても、おかしくないと思うのだが。

 それにしても、徂徠の人生は将軍綱吉に振り回された感がある。

 

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