小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

19 密謀【歴史物】(1982)

【あらすじ】

 軍神と謳われた上杉謙信の薫陶を受け、その後継者である上杉景勝に仕えた直江兼続。謙信亡き後の後継者争いで名を成し、織田信長からの圧力から逃れると、本能寺の変の後の情勢を、自らの配下である草の者・喜六の情報を元にして推し量る。石田三成からの書状にも感銘を受け、羽柴秀吉の傘下に入ることを決意する。

 

 豊臣となった秀吉政権の中で重きを成す上杉家。それは上杉の家風から、豊臣政権を律儀に支えることを期待された表われだった。景勝を支える直江兼続もその役割に異存はなく、三成と肝胆相照らす(かんたんあいてらす)仲となっていく。そんな折に秀吉は薨去し、徳川家康が代わって天下を望む。

 

 豊臣政権を支える三成は、兼続と語らって上杉が東で蜂起し、家康が追討に向かう時を見計らって、西に勢力を集めて挟み撃ちにする計略を立てる。そして三成の描いた通りの展開になるが、会津征伐から西に軍勢を転じた家康に対し、上杉家は手を出さずに、天下分け目の戦いに参入しなかった

 

直江兼続上杉景勝の主従を描いたもう1つの作品は、2人の味付けが異なります。

 

【感想】

 時代小説と歴史小説の違いについてこだわりを見せていた藤沢周平。「小説には変わりない」と開き直りつつ、「歴史的事実とされてきた事柄は尊重しなければならない」と自ら戒めている。本作品は信長以降、関ヶ原に至るまでの上杉家を、直江兼続を中心に上杉景勝との交流を交えながら、歴史的事実を踏まえて描いている。

 そんな物語だが、藤沢周平独自の「視点」を大事にしている。郷里の山形県の藩で身近な存在の上杉家。「不識庵上杉謙信以来武を尊ぶ家風が、何故関ヶ原の戦いに参戦しなかったか、という自身の疑問に答えようと筆を進めている。

 直江兼続が名を高めた謙信死去後の後継争い「御館の乱」。子がない謙信は甥にあたる景勝を養子にして後継を成したかに見えたが、同時に小田原の北条氏康から養子を貰い、謙信の元服名である景虎の名も与え、家中に災いの種を残す。謙信が急死した後は家中が2分するが、景勝配下の直江兼続は、即断と果断で思い切った措置を行い、禍根を断った。

 

   

*主君景勝を支えた直江兼続は、石田三成との「密謀」で、上杉の名を天下に轟かせようとした(ウィキペディア

 

 藤沢周平直江兼続に、北条家出身の景虎は「偉丈夫で言語明晰、風貌は貴公子の洗練」と言わせる。対して景勝は小柄で風采が上がらす、自ら口を開くことも滅多にないとして、その土臭い顔を「越後の顔」と評している。関東で生まれた景虎の「その明るさが、上杉と越後の領国を保つ上で、むしろ行く末不安をもたらしそうな感触」を兼続は捨てきれない。

 これは同じ日本海側で越後と隣り、豪雪地帯の庄内で育った藤沢周平だからこその感覚。同じような視点から「由来越後は、土着の武将がひんぱんに支配者にそむいてきた土地柄である。北から南に細長い地形と、心の底まで容易に人に服さない雪国の反骨がそうさせた」とも書き記している。

 藤沢周平が長年疑問に思い、本作品を書くきっかけともなった行動。兼続は関ヶ原に向う徳川軍の追撃を進言するが、景勝は首を振る。「その必要はない!」と。「上杉は内府を討つために兵を挙げたわけではあるまい。(中略)武門の意地はつらぬいた。大坂に対する義もいささか立ったというものだ」「敵の弱みにつけこんで追撃をかけるのは上杉の作法ではない」。石田三成直江兼続の天下をかけた「密謀」。それは上杉家を第1とする景勝の判断によって潰えた。

 全てが終った後で、徳川家康に対する対峙の姿勢で主従の意見が再度割れる。堂々と徳川軍と闘って、天下取りを求める直江兼続。対して景勝は「待て、山城」と兼続を遮りそして言う。「わしのつらをみろ。これが天下人のつらか」。

 更に「わしは武者よ」「天下のまつりごとはまた格別。(中略)わしは腹黒の政治好きではない。その器量もないが、土台、天下人などというものにさほど興味を持たぬ」と。直江兼続が信頼した「越後の顔」を持つ上杉景勝その顔が「天下人」には似つかわしくないと自ら評する皮肉藤沢周平は長年の疑問を、この「越後の顔」で決着をつけた。

 但し私の疑問は残る。家康軍を追い打ちしなかった後に起こした上杉軍の動き。残された徳川秀康軍と争わない代わりに、北の最上義光を攻め入る。「敵の弱みにつけこんで追撃をかけるのは上杉の作法ではない」とした謙信以来の軍法だが、この戦いは「火事場泥棒」の臭いを感じる。最上義光伊達政宗に援軍を求めるが、前線基地の長谷堂城は1,000人の守りに対して上杉軍18,000人が襲いかかる。

 

  

 直江兼続の思いに対して、自らを天下人の器量はないと評した上杉景勝ウィキペディア

 

 そこへ関ヶ原の戦いで西軍敗北の報が流れ、上杉軍は撤退。最上・伊達軍は追撃に出て、直江兼続も死を覚悟する激戦になるが、「かぶき者」前田慶次らの活躍でようやく逃げ込む・・・・

 やはり上杉家も「義」だけでは片付けられない戦国大名だったのか。但し景勝と兼続が恥辱を受け入れて家康に降伏したことで家名は残り、紆余曲折はあったが明治まで続く。苦難の藩運営で窮乏を強いられた米沢藩からは、名君上杉鷹山を生み、明治後は政財界の大物を輩出して、景勝と兼続が豊臣政権の柱石を担ったように、新しい日本を支えた。

 景勝と兼続。2人の思いは引き継がれた。

 

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