小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

14 家康の子(結城秀康) 植松 三十里(2011)

【あらすじ】

   徳川家康の側室のお万が子を孕んだが、家康は戦乱の真っ最中で、お万を省みる余裕はない。しかも子は当時嫌われた双子と悟ったお万は、近習の「鬼作左」こと本多重次と相談して、実家に戻って産みたいと望む。しかし家康はそんなお万に疑いを持ち、子への興味は失せてしまう。

 

 生まれた子は予想通り双子だった。お万は病弱な1人を神官とし、家康には男子が1人産まれたと報告した。家康は幼名を於義伊と伝えるのみで、対面もしなかった。

 

 そんな弟を哀れんだ兄の徳川信康は、家康に親子の対面をさせて、自分の子と認めさせた。しかし信康は実母の築山殿と共に信長から死を命じられる。信康はまだ5歳の於義伊を呼んで、家康には絶対に逆らわないことと、母は政道に口をはさまないようにと約束させて、自らは徳川家の犠牲となり、命を絶つ。

 

 信康の死により於義伊は長子になったが、信康と入れ替わるように生まれた弟の長松が、弟ながら嫡子扱いされた。その後信長が倒れ、家康は秀吉と戦うも膠着状態となり、人質として於義伊が秀吉の元に送られることになる。運命を呪う母のお万だが、於義伊は信康の遺言をかみしめ、家老石川教正と本多重次の子に付き添われて豊臣家に送られる。

 

  結城秀康ウィキペディアより)

 

 迎え入れた豊臣秀吉、そして妻のお寧や母の仲はやさしく迎え、すぐに元服させて秀吉と家康の名を1字ずつとり「秀康」の名乗りが与えられる。しかし家康は秀吉に臣従する気配がない。徳川家の外交を担う石川教正は、秀吉が敵に内紛を招く策略を得意とすることから、人質の秀康らがその道具に使われることを危ぶむ。回避するためには、自らが独断で家康から寝返り、秀吉の懐に飛び込むしかない。

 

 石川教正、そして人質となった秀吉の妹や母の戦争を回避したい気持ちが通じ、家康は秀吉の臣従を決断する。秀康の立場も安泰と思われたが、その後秀吉に子が産まれたことで、秀康は北関東の名門結城家の養子に出されてしまう。結城家は数万石の小大名で、実父家康、養父秀吉から見ると格が落ちる。しかし秀康は、囚われの身から脱却し、母のお万を迎え入れることを喜んだ。

 

 秀吉が薨去して家康が次の天下人を狙うが、秀康はその名の通り、豊臣家と徳川家の間に挟まってしまう。上杉討伐を口実に、軍勢を反転して一気に片を付けようとする家康は、秀康に上杉の備えの役割を与える。大勝負に参加できない秀康は不満を漏らすが、家康は戦いに負け家康と秀忠が切腹した場合、秀康しか徳川をまとめることができないと諭す。  

    

 関ケ原の戦いは家康の勝利に終わった。秀康は越前68万石を拝領され、そこで治世に励むも、若くして病魔に蝕まれる。病の床に、幼い時に一緒に過ごした仙千代こと本多成重が現れ、あの時の約束通りに秀康に仕えたいと願望する。その声を聞いて、秀康は34歳の若さで生涯を閉じた。

 

 *秀康が養子となった、結城家の物語です。

 

【感想】

 ここからは家康の子供たち、そして幕府立ち上げのブレーンを取り上げていきます。

 

 秀康が家康と伏見城で相撲観戦したときの話から。大一番を前に、観客が熱狂して興奮状態になったが、秀康が観客席から立ち上がっただけて、その威厳に自然と観客の騒ぎは静まり、家康も驚いたとされる。この有名なエピソードを持つ秀康は、器量があり家系にも恵まれながら、秀吉と家康は、共にその能力を封印させた。

 まずは秀康が家康から嫌われたとする説について。正妻の築山殿に遠慮したこと、外見がナマズの「ギイ」に似て悪相だったこと、武田家との戦いで心の余裕がなかったことが理由に挙がっている。しかし本作品では、当時お家騒動の原因となり、短命として嫌われた双子の説を取った。双子のもう1人は、生まれた時から足が不自由で、実家で神主の道を歩むが、早世する。

 次に石川教正が家康から秀吉に寝返った経緯について。単純に家康を見限った説や、秀吉に心服した説、三河家臣団から秀吉に通じていると疑われ、居場所が、なくなった説などがある。しかし本作品では、自分が汚名を着ても家康と秀康の命を助けようとした、としている。これもまた作者の見事な解釈となり、秀康に付き従った数正の子勝千代も交えて、不思議な説得力を与えている。

 父家康の複雑な胸の内も興味深い。子に対して冷たいように見えて、当主としての真意が徐々に明らかになっていく。家康も人質を経験したため、人質の役割と秀康の辛い立場はよく理解している。一方、当主としてまず徳川家臣団のことを考え、家臣団が納得するまでは決断をしない姿勢が、周囲や秀康に誤解を生んだとしている。

 結城家という名家を継ぐ苦労も思い、処世訓のような覚書を秀康に渡すなど、親としての思いが少しずつ秀康に浸透していき、従来の家康と秀康との関係とは違う姿を描いた。

 豊臣家へは人質扱いだが養子として送られる場面で、石川教正の子勝千代と本多重次の子仙千代が付き従い、仙千代が寂しさの余り夜泣いて、父重次が付き人を密かに甥に替えてしまうシーンがある。

 

  *本多重次(ウィキペディアより)

 

一筆啓上 火の用心 お仙拉かすな 馬肥やせ」という、簡潔にして愛情も感じる戦場からの手紙を書いたのが「鬼作左本多重次、「お仙」が秀康の付き人となった仙千代にあたる。仙千代は本多成重となり、重次の後を継いで旗本となるが、幼い日の約束を忘れずに、秀康なき後の当主松平忠直を支えるために、直臣の立場を捨てて越前藩に仕える。

 そして本多成重の居城だった丸岡城が、「日本一短い手紙」ゆかりの場所として21世紀の町おこしに役立つとは、さすがの「鬼作左」も想像できなかっただろう。 

 

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