小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

17 黒衣の宰相(金地院崇伝) 火坂 雅志(2001)

【あらすじ】

 室町幕府の名門一色家は戦国の世になると衰退し、父は京から落ち延びる時に5歳の崇伝南禅寺に入れる。運命を呪った崇伝は学問で身を立てようと決意し、同じく天下一の商人を夢見る六弥太と一緒に明に密航しようと試みるが、加藤清正率いる海軍に見つかり、命からがら逃げ帰った。

 

 南禅寺に戻り謹慎していると、弁舌が巧みな大徳寺妙空から法論を挑まれ、師匠の玄林から代わりをするように頼まれる。崇伝の弁舌は冴え渡り勝利を収めたかに見えたが、妙空に同席していた沢庵の助け舟で引き分けに持ち込まれた。それでも崇伝は23歳の若さで名を高めたが、待っていたのは左遷。廃寺へ追いやられた崇伝は詭弁を弄して「身代わり阿弥陀」を宣伝して、寺をもり立てる。

 

 評判を聞いた淀君の招きで、秀頼の病気平癒のため崇伝が伏見城に行くと、そこで出会った侍女は、密航する時に会った倭寇の娘の紀香。逢瀬の度に紀香に執着していくが、学問で身を立てる気持ちは変わらない。そんな崇伝は、廃寺を復興させた腕を買われて南禅寺の役員へと異例の出世を遂げ、師の代わりに豊臣政権で外交文書を担当する仕事を担う。

 

 秀吉薨去後は徳川家康に近づいて外交部門を統括する野望を持つが、家康はまだ33歳と若い崇伝に裏方の大切さを諭して、九州に漂着したリーフデ号の対応を命じる。そこでイギリスとスペイン、カトリックプロテスタントの関係をウィリアム・アダムスから聴取して、最新のヨーロッパ事情を修得する。

 

 幕府設立を担当すると、のらりくらりの朝廷や公家たちに対して、崇伝は女忍びを使って弱みを握り、半ば脅すようにして作業を進め、関ヶ原の2年後に成し遂げる。崇伝は徐々に権勢を広げていく中で、崇伝より30歳は年上の南光院天海が、ライバルとして台頭する。

 

  *金地院崇伝(ウィキペディアより)

 

 イエズス会の影響は幕閣にまで及ぶと、貿易を優先した家康もついに決断し、崇伝にバテレン追放令の起草を命じた。しかし若い頃ともに密航を企て、その後海外貿易で財を成した六弥太は棄教を断り、崇伝と袂を分かつ。

 

 大坂の陣では豊臣家を追い込む際に「国家安康」の銘文から家康を呪詛するものと難癖をつけて、開戦に尽力する。但し大坂城内にいる紀香を思い、命がけで城に潜入し失明した紀香を救い出す。紀香も死の病に取り憑かれていて、豊臣家が滅亡したことと、それを追いやった崇伝に対する錯綜した想いに苛まれながら、2ヶ月後に崇伝に看取られて生涯を終えた。

 

 紀香が亡くなり政権に復帰した崇伝は、武家諸法度公家諸法度などを整備して幕府の基盤を固めた。しかし家康の死に際しての祭礼を巡り天海と争い、太閤秀吉の先例を悪しと判断する幕閣により、崇伝の意見は退けられる。政権は家康から秀忠側近に移ると崇伝も権勢を失い、65歳で遷化した。

 

 

【感想】

 秀吉の「帷幄の臣」全宗を著わした火坂雅志だが、本作品では徳川家康の「黒衣の宰相」金地院崇伝を主人公とした。また火坂雅志織田信長の教育係の「沢彦」も描いていて、三英傑ゆかりの僧侶を、揃えて素材に上げている。

 

 「天地人」でも触れたが、火坂雅志は(架空の)女性を配して作品に彩りを与えようとする。「天地人」や「全宗」ではその効果は疑問もあったが、本作品で描かれている紀香(このネーミングは頂けないが・・・・)は最後まで崇伝と絡み、そして生き方に影響を与えている。

 出会いのときは満月に浴びる草花月桃の葉)を添えて、太閤秀吉に召し出される運命を背景に一夜の契りを遂げる。再会の時は太閤遺愛の五色八重散椿を鮮やかに描き、崇伝が瀕死の病で床についているときは、たおやかな貴船を枕元に置く。「世俗の野心の塊が、法衣をまとっているような男」を描く補助線として使われ、女忍びの霞も橋渡しとしての役割を果たした。

 あくまでも権勢を求め、そのために次々と政敵を追い落とそうとする「禅僧」の崇伝。我が師を踏み台にして、ライバルの動向を探り、隙あらば取って代わろうとする野心。そして「国家安康」の銘文で駆使される「悪巧み」。序盤で描かれた明へと密航を試みる飽くなき野望とエネルギー、そして法論で駆使される知恵が、最後まで作品の背軸として貫いている。

 妙空のほかにも、様々な僧侶が崇伝に絡む。崇伝の師で京都五山の筆頭である南禅寺住持、玄圃霊三徳川家康の外交顧問として、有名な「直江状」の仲介を成した、これまた野心家で崇伝と対立する西笑承兌。「国家安康」の銘文を起草して、鐘銘事件のきっかけとなった文英清韓名刹から離れて世評の喝采を浴びるが、崇伝から見れば芝居がかった生き方としか思えない沢庵

 そして南光院天海比叡山延暦寺天台密教出身の僧侶を、加持祈祷を重んじ、いざという時に有無を言わせない重みを持つ男として描いた。そして明智光秀伝説ともクロスさせている。

 「全宗」はあくまで医術の面から秀吉の臣を描いたが、崇伝はその学識から、家康の「謀臣」として幕府の基礎を築いた人間として扱っている。その知識とエネルギーは、時代が異なれば北条早雲、そして斎藤道三のような生き方が本来の「道」だったのかと思わせる。一色家の旧臣を集めて取り巻きとし、僧侶大名として権勢を隠さずに、世の汚名を一心に背負った。そして家康の目前で槍を振るう武勇も誇った崇伝は、僧侶の枠に収まり切らなかった。

 

*こちらも気になりましたが、間に合いませんでした。

 

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