小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

12-2 虎の城(藤堂高虎)② 火坂 雅志 (2004)

【あらすじ】

 主君秀長の豊臣家が廃絶となり、藤堂高虎は城の明け渡しを担当した。城を受け取るのは五奉行の1人、増田長盛の家臣で、高虎と同郷の渡辺勘兵衛。奇しき縁を感じつつも牢人となった高虎は高野山に籠もるが、秀吉から直参の誘いが舞い込む。一旦は断るも、復讐のためには力をつけなくてはならないとして、南伊予7万石の大名に封じられる。但しその地は前任者が強引な治世で抵抗が激しく、「狂死」したと噂されていた。しかし高虎は地元の民と親交を深めるとともに、租税も軽減して領民を心服させた。

 

 伊予を支配する立場から、朝鮮出兵に船団を手配する役割を担う。ところが戦いに正義を見いだせない高虎は、益々豊臣家から心が離れてしまう。そんな高虎に五大老筆頭の徳川家康が接近する。秀吉治世の中家康が上洛する際に、京都滞在期間だけの屋敷造営を任された高虎は、その場限りとは思えない行き届いた造築を行い、家康から目をかけられていた。そして高虎も、秀吉にはない世の安定を願う家康に臣従を誓う。

 

 秀吉薨去後、天下を差配するために大坂城に入城した家康は、高虎に西の丸増設を依頼する。本丸に劣らない造りを目指す家康の希望に対し、高虎は大工衆や穴太衆などの専門集団を組織することによって期待に応え、その後の城作りの名人と言われる素地を作りあげた。

 

 関ヶ原前夜は家康の意を汲み、高虎は黒田長政とともに豊臣家中における石田三成ら官吏派と、加藤清正を中心とする武断派の対立を深め、武断派を家康に引き寄せる役割を引き受け、結果として主君秀長の家を改易した石田三成への復讐を遂げる。しかし戦いが決着した後は、官吏と思っていた三成が天下を二分する戦いをやってのけたことに、ひたすら感服する。

 

 関ヶ原で敗れた増田長盛から城を受け取る役目を受けた高虎だが、城を守っていたのは因縁の渡辺勘兵衛であった。奇しくも城の受け払いを、両方の立場で相対した2人だが、高虎は渡辺勘兵衛の力量を買い、20万石の中の2万石を割いて、家老をして採用する。領地今治城の造営を勘兵衛に任せ、高虎は家康の意向で大坂の北の抑えとなる篠山城伏見城の改築、二条城、そして江戸城駿府城などの縄張りを任され、加藤清正とともに築城の名手とされた。

 

  

 *今治城藤堂高虎(ニュースイッチより)

 

 家康の信任も厚く、交通の要所で大坂にも駿府にも近い伊勢に移封となった高虎は、大坂の陣では徳川家臣の井伊家とともに先陣を賜わる。そこで大坂方の長曾我部盛親軍と激戦を演じるが、本来は軍を指揮する立場の家老、渡辺勘兵衛が先陣に向かい、陣形は乱れ拙速な攻撃に窮地に陥ってしまう。多くの家臣を討ち死にさせてしまった勘兵衛を、高虎は許すことができず、放逐してしまう。

 

 家康は死去する前、秀忠に高虎の経験は役に立つので、若い側近と共に夜話で話を聞くように伝える。高虎は経験を語り帝王学を伝え、神君家康にこだわらない新たな治世を作るように進言する。秀忠の娘和子の入台に尽力した高虎は、自身の教訓を数多く家臣に伝えたあと、75歳で没する。

 

 

【感想】

 秀吉憎し、三成憎しで徳川家康に近づいた藤堂高虎。しかし家康に与した後は、家康のブレーンとして自らが持つ「特技」を発揮した。築城の名手である加藤清正は、石垣の重みを分散させる扇勾配とする造りを得意としたが、高虎は高石垣を用いて清正と対比される。そして専門集団を集めて築城の「プロジェクトチーム」を編成し、また城の構造も四角を組み合わせる構造が多く、現在のユニット構造にも通じ、頑丈な構造を短期間で作りあげることで名を馳せた。

 

藤堂高虎と不思議な縁で結ばれた、同郷の渡辺勘兵衛の物語です。

 

 当初は槍一筋の武辺者だった藤堂高虎が、豊臣秀長との出会いで人間的に成長することで、スタート地点が同じだった渡辺勘兵衛と運命を分けていく。特に最後に勘兵衛を放逐する場面は、池波正太郎の「戦国幻想曲」と裏表となって興味深い。武断派と官吏派の争いは豊臣家でも徳川家でも生まれ、槍一筋の渡辺勘兵衛からは、高虎は官吏派と見られていた。しかし高虎は無類の「武断派」でありつつ人間の機微に通じ、調略も土木も秀で、高い能力を保持したオールマイティーを有していたこと。

 本作品に書かれている高虎が家臣を採用する際に「①苦労人であること ②但し心がねじ曲がっていないこと ③肚がすわっていること」と3つの基準を設けている。対して自分には「①自分の言動に責任を持つ ②家臣を差別せず、評価は正当に行なう ③家臣の困りごとに心を配る」としている。まさに苦労人が自らの経験から生み出した教訓であり、同じく苦労人が作った「北条早雲21ヵ条」にも通じている。

 南伊予を支配した際、隣国の北伊予は「賤ヶ岳の7本槍」で有名な加藤嘉明が領主で、境界のいざこざや朝鮮出兵での競争などで、仲が悪かったらしい(同じく北と南で肥後を分断支配した加藤清正小西行長と思い起こす)。そんな加藤嘉明に対しても、会津への加増の話が出た際は、既に伊勢国主になっていた高虎は過去を水に流して推薦し、嘉明は高虎に恩に着たという。高虎の大きさを記す挿話だが、高虎からすれば、それで面倒な敵が1人減った方が得と思ったに違いない。

 

 秀長でなく秀吉に仕えていたら、高虎もそして渡辺勘兵衛も、加藤嘉明のような出世コースを辿った可能性が大きい。しかし家康の懐に入ることはできず、関ヶ原で敵対するか、仮に東軍になっても真っ先に改易を狙われたはず。

 今まで関ヶ原で、家康の敵味方に分かれた武将のいくつかを取り上げた。「七本槍」を始め関ヶ原の選択を後悔し、将来の不安に苛まれた大名たちが多い中、高虎の晩年は恵まれたものになった。

 

  

 *「7本槍」の1人、加藤嘉明ウィキペディアより)

 

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