小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

20 加藤清正 海音寺 潮五郎 (1983)

【あらすじ】

 羽柴秀吉が浅井家の旧領を受けついで長浜に城を築いた年、秀吉の母のいとこ、お沢が息子を連れて訪ねてくる。虎之助と名乗るその少年は、身体が大きく堂々として、秀吉は侍奉公の将来性が見込んで、200石で召し抱え、名を加藤清正と改めた。その後秀吉は近江の寺で修行をしていた石田左吉三成という利発そうな青年と、清正ほどの背丈はないが怪力の福島市松正則も召し抱える。清正は尾張で同郷の市松とは馬が合うものの、知恵をひけらかして蔑む視線を送る左吉とそりが合わなかった。

 

 秀吉は信長から播磨攻略を命じられ、その背後にいる毛利家に滅ぼされた尼子家の家臣、山中鹿介を味方に引き入れる。秀吉の陣に滞在する鹿介から、清正と政則は武土の生き方について教えを乞うと、鹿介は武辺とは「律儀」と答えた。鹿介はその後、上月城で孤立しながらも毛利に抵抗し、死してなお主家の尼子に殉じた。清正は号泣するとともに、「律儀」が生涯の指針に刻み込まれた。

 

 秀吉が高松城を水攻めしているときに本能寺の報がもたらされ、秀吉は「大返し」で明智光秀を討ち取り、天下人として名乗りを上げた。柴田勝家を相手にした賎ケ嶽の合戦では、清正も「七本槍」と呼ばれる活躍をする。秀吉が関白に就任すると清正も3000石に昇進し、主計頭に叙任する。

 

 九州平定後、肥後国主を任命された佐々成政が支配に失敗すると、その後釜として一躍北肥後26万石の大名に抜擢される。清正は支配が難しい肥後を武カで制圧する一方、治水エ事や特産品の振興を行い、国を豊かにして支配を進める。そして秀吉は清正と南肥後の小西行長の2人を先鋒として、朝鮮出兵を命じる。

 

  

 *加藤清正ウィキペディアより)。なお清正の娘は紀州徳川藩に嫁ぎましたが、子は生まれなかったため、八代将軍吉宗と血の繋がりはないようです。「清正神話」として流布していますね。

 

 商人出身の小西行長は朝鮮の渡航も経験済のため、巧みに攻め入る一方、石田三成と結託して、講和による早期終戦を図っている。対して清正は秀吉の意向を忠実に守り、朝鮮から明国への侵略を目指し、敵陣奥深く進んで行く。そんな「律儀」が目障りとなった三成と行長は、秀吉に讒言して清正を国元に送り返す策略をとる。三成らの思惑通りに清正は秀吉から勘気を被り、帰国して謹慎となった。そんな時天正地震が起きて、一目散に秀吉の元に駆け付けた清正は「地震加藤」と異名をとる。

 

 秀吉が薨去し、徳川家康が天下簒奪を目論むが、石田三成がその野望を阻止しようとする。しかし 清正は三成との長年と確執から、福島正則らと組んで三成の命を奪おうとする。そんな豊臣家中での内紛を巧みに繰った家康が関ケ原の戦いで勝ち、天下を手中に収める。

 

 その後清正は秀吉の遺児、秀頼を「律儀」に守るために生涯をかける。豊臣家を完全に制圧したい家康と、現実を見ないで家康を下に見ようとする淀君の間に立って、豊臣家存続のために汗を流す。そして二条城で家康と秀頼の対面を果たすが、同席した清正はその後肥後に戻る船中で発病し、そのまま意識が回復せず生涯を閉じる。

 

 

大河ドラマ真田丸」では、新井浩文が三谷脚本のもと、パラノイア(?)な加藤清正を演じました。ナレーション担当だった有働アナが電車で知らないおじさんから「加藤清正って、あんな人物じゃない」と文句を言われたエピソードが笑えます (^^) 

 

【感想】

 秀吉編の最後は、豊臣家の忠臣として最後まで仕えた加藤清正を、数多くある小説の中から、敢えて「古典」の海音寺潮五郎作品を取り上げた。加藤清正は治水エ事や朝鮮で 「先端技術」を有していた職人を日本に引き連れて、殖産興業や城づくりなどでも功績を上げた、武辺一辺倒では論じられない武将で、肥後熊本では今でも神様扱いされている様子。

 一方徳川家康が余りにも加藤清正を褒めるので、家臣たちは清正「程度」を持ち上げるのに不満を漏らしたと言う(家康が褒めるのは当然、政治的な意図がある)。「太閤記」は竹中半兵衛諸葛孔明加藤清正関羽福島正則張飛になぞらえて描いたために、清正が良く描かれ福島正則が損をした、との意見もあるが、それだけではあるまい。

 加藤清正七本槍などの武勇が有名だが、肥後領主となる前は秀吉の代官として、征伐して得た土地を治める役割を担っていたという。そんな「財務官僚」の資質も有しているため、治水や殖産興業、そして巨大な石垣構造の「力学」の重要性も認識できた。これは作者海音寺潮五郎の故郷の英雄、西郷隆盛が若い時は代官で、そろばん勘定に秀でていたエピソードを連想させる。

 国主が長年不在で多数の国人が乱立していた肥後国で、武力を示しつつ治水や熊本城など強力な国主でなければできない所業を見せつけた清正が、その後細川家の支配が200年以上続いた熊本で、いまだに「神」と崇められたわけが想像つく。武力だけでは確かに徳川家中にも比肩する武将は数多くいただろうが、為政者としての能力は秀でたものだったに違いない。

 冒頭で山中鹿介のエピソードを描いて「律義」を心に刷り込ませた清正。秀吉死後、論語の「六尺の孤を託すべし(幼君を助けて一国の政治を任せることができ、節操の固い人は君子をいえる)」との言葉を聞いて涙を流す。これは前田利家が秀吉から秀頼を託された後に知り、涙を流した言葉でもある。そんな清正が、大坂の陣の前に亡くなったのは不幸だったのか、それとも幸いだったのか。その答えを池波正太郎は「火の国の城」で、熊本城を軸に清正の真意を紐解いた。

 

加藤清正が肥後の国を治めた頃の物語です。

 

 なお本作品では清正の死因は病気としているが、「遅効性」の毒薬を家康が二条城で盛ったという疑いもある。その方が興味深い面もあるが、海音寺潮五郎は敢えて取り上げなかった。それとは別に死因を瘡(ハンセン病)とする説もあり、清正を祀る加藤神社に平癒を願う参詣者が、明治になってからも続いたという。実際そうだったのか、同じく肥後を治めた、ライバル小西行長の業績と混在したのか。

 これも1つの「清正神話」。

 

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