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【あらすじ】
近江国浅井郡三川村の農民久兵衛(後の田中吉政)は、父が戦で負傷して満足に年貢が収められなくなると、農民の暮らしを悲観し、領主の宮部善祥坊に仕えることを決断する。小者から始まった宮仕えは厳しいものだったが、身体を鍛え槍などの武術も勉強して、徐々に頭角を表していく。仲間内での試合で勝ち進み認められ、正式に3石取りの下士になることができた。
浅井家に従っていた領主の宮部善祥坊は、織田方の木下藤吉郎の勧誘で、織田方に寝返ることを決める。そこで人質に取った藤吉郎の甥である万丸の子守を吉政が務めることになった。藤吉郎は真面目な仕事振りの吉政に見所を感じ、当時7石半の禄を10倍の75石へと推薦する。
その後は秀吉の出世に歩調を合わせて、数々の戦場で活躍して順調に出世していく。秀吉の鳥取城攻めで功績を挙げた宮部善祥防が鳥取城主になると、吉政も300石から1,500石の家老を務めることになった。そこへ本能寺の変が起き秀吉が光秀を破ると、秀吉とともに吉政にも更なる運が開けてきた。かつて吉政が子守をしていた石丸は秀次と名を代えて、「秀吉の次の人」の存在を増していく。
ところが徳川家康と闘った小牧長久手の戦いで、秀次は大将として勝ちを急ぐ余りに吉政の言うことを聞かず、多くの武将が戦死する原因を作ってしまう。吉政は秀次と共に出世の道も途絶えたかと覚悟するが、秀次は秀吉の後継者として大名となり、吉政も家老として3万石取りと大きな出世を遂げる。
家康が関東に移封されると、吉政は岡崎城5万石の城持ち大名となった。その秀次が秀吉の勘気に触れて切腹となる。今度こそ吉政は 「わしの運もこれまで」と覚悟したが、以前から秀次には諫言を続け、その内容を同郷の石田三成に知らせていたこともあり、加増されて 10万石の大名まで出世する。
秀吉の死後徳川家康と石田三成が対立する。吉政は家康率いる上杉征伐に従軍するが、三成とも連絡を取り会っていた。ところが関ケ原の戦いは、長期戦を予想していたが半日で決着がついた。家康から寝返りを疑われていた吉政は、信頼回復のため三成捕縛を申し入れ、逃亡中の三成を捜し出す大功を挙げた。家康からはこの功により、筑後国柳川城32万石を与えられ、ついに国持大名となった。
しかし農民の時に気持ちが通い合っていた妻おふくは、最後まで武家の家風に馴染めず、出世のために離縁した。代わりの正妻とは心が通わないままで、女房運はいいとは言えなかった。そのおふくは、農民の時に吉政から年貢を取り立て、侍を諦めたかつての同僚と再婚していたことを知る。
3石取りの時から吉政に仕えた新兵衛は、一代で栄え、そして消えた長い物語を語り聞かせた。
【感想】
1石とは1人が1年分食べる米の量の目安。3石取り士分は、家族がやっと食べられる量。吉政は農民の時の田は5石分だが、半分は年貢に待っていかれた。そんな吉政と同じように、裸一貫の立場から身1つで秀吉に仕え、その 「上昇気流」に乗って大名となった者が何人かいて、似たような経歴を辿っている。
*太閤記では、イノシシ退治で有名な挿話のある堀尾吉晴の物語。迷いましたが、関ヶ原の後の話もあったので、本作品に決めました。
● 堀尾 吉晴~父は織田信長とは別流の岩倉織田家に仕え牢人。信長の鷹狩りの時に襲ってきた猪を退治したところを秀吉は雇った。吉政と同じく秀次に仕えたあと浜松城12万石を領し、関ケ原の戦いの後は出雲24万石に加増。「戦国はるかなれど」(中村彰宏)の主人公。
● 山内 一豊~「功名が辻」(司馬遼太郎・大河ドラマ)の主人公。美濃の牢人から秀吉に仕え、秀次に仕え後掛川城5万石の大名に。関ケ原前夜の小山評定で、掘尾吉晴の子忠氏のアイディアをパクって家康側を勢い付け、土佐20万石の国持大名に。
● 中村 一氏~出自は不明で、木下時代の秀吉から仕えた古参。岸和田城主などを務め、小田原攻めでは秀次軍の先鋒を務め、その後駿河府中14万石を拝領。関ケ原の直前に病死。
● 一柳 直末~中村一氏と同じく木下時代の秀吉から仕えた古参。秀次に仕えたあと美濃大垣城6万石を拝領。小田原征伐で戦死した後は弟の直盛が継いで、関ケ原の後伊勢6万石の領主に。
全て古くからの秀吉の子飼いで、戦場を中心に実直な仕事振りが共通している。吉政も槍働きから始まって代官としての仕置、家老として主君を支える仕事、領国経営や町割、治水など、時に周囲の知恵を借りながらも1つ1つ問題を解決して、大名として成長していった。
加藤清正などの武断派、石田三成などの吏僚派とも一味違う人柄であり、共に次代を担うとされた秀次を支える立場として、秀吉から託された。秀次が切腹に追い込まれて家康が関東に移封された後は、東海道の国を拝領して家康の「番人」を期待される。
ところがその全員が、秀吉の死後家康についた。裸一貫から戦国を駆け抜けた男たちは、大半は自ら家を守る選択をしている。それとも「変わってしまった」秀吉に見切りをつけたのか。
その中で石田三成を捕まえた田中吉政も、嫡子は母を捨てた父を恨んで勘当となり、徳川家の人質となっていて覚えのめでたい四男が家督を継ぐ。しかしその四男も62歳で吉政が亡くなった後、嫡子がないまま亡くなって、1620年に田中家は廃絶となってしまう。
「同僚」と言える者たちも、弟が継いだ山内家、一柳家は明治まで家名が残ったが、堀尾家、中村家はその後嫡子がいなくなり、田中家と同様改易となってしまった。それは豊臣家そのもののようでもあるが、戦国の「あだ花」と一言で片づけるには、余りにも多くの血と汗と「思い」が、家名に染み込まれている。
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