小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

5 信長が宿敵 本願寺顕如 鈴木 輝一郎(2005)

【あらすじ】

 本願寺第10世証如の子にして、11歳で父が急死したことで、急遠得度して本願寺を継承した顕如。妻帯が認められている浄土真宗(ひたすら念仏を唱えることから、一向宗とも呼ばれる)として、14歳で公家の名門三条家から「きた」を嫁とし、天皇の綸旨により「御門跡」となった。朝廷との繋がりを深め、門徒は増加して経済力も高まり、そして一向一挨など軍事的な力も有する。教団は石山本願寺を拠点として、大名に匹敵する権力を持つようになっていた。

 

 そんな時織田信長が上洛する。信長は旧弊を打破する意欲をみなぎらせ、面会した顕如は、「古きもの」との繋がりも深い自分とは、相容れないものを感じる。信長は本願寺に対し、堺と同じように高額な矢銭の徴求を要求して圧迫を始める。一度は信長の要望を受けたが、次は矢銭に加え、嫡子の教如を人質に出す要求も加えられていた。顕如はこの要求を断り、信長と11年に亘る長く苦しい戦いが始まった

 

 顕如は自ら石山本願寺に籠り、各地の一向宗徒に激を飛ばした。将軍足利義昭とも連携して「信長包囲網」を構築しながら、鉄砲の名手・雑賀党の鈴木孫一などの「傭兵」を雇い入れて織田軍と交戦を始める。織田軍にも一向宗徒がいて士気は低く、当初は本願寺側が優勢に戦いを進めていた。その中で顕如の息子教如鈴木孫一から離れず、次第に鉄砲術なども学んで、孫一も捻るほどの腕前に成長した。

 

   

 *軍装に身を包んだ顕如(石川県立歴史博物館)

 

 伊勢長島の一向一揆に対して劣勢だった信長は、大軍を率いて一気に決着をつけようとする。その噂を聞いた教如は、単身で長島の一向宗に潜り込んだが、顕如は単独行動を繰り返す教如に激怒する。結局教如鈴木孫一に救い出されるも、顕如に対して反抗心を隠そうとしない。そして妻のきたも、家族を顧みない顕如に対しで不満を漏らす。

 

 それでも御門跡としての務めを果たすために、信長と戦いを続ける顕如。だが武田信玄が亡くなり、浅井・朝倉も滅亡して信長包囲網は崩壊した。足利義昭も信長に反旗を翻すがすぐに鎮圧され、身ぐるみ剥がされた姿で放逐される。本願寺は新たに毛利を引き入れて糧道を確保するも、信長は巨大な鉄甲船を用意してこれに対抗し、毛利方の村上水軍による輸送路は断たれた。そんな時に「調略の達人」羽柴秀吉がやってきて、石山を退去することを唯一の条件として和睦を求めた。

 

 ついに頭を下げる決意をした顕如に対して、「信長憎し」の教如はとことん戦うべく、教団と語らって父顕如を排斥する。しかし現実主義の鈴木孫一はここが潮時と捉えて教如に反論、顕如は息子教如を絶縁して本願寺から退去する教如は一部の門徒本願寺に残るが、顕如が大勢の門徒と退去するその中には、戦いの中で生まれた阿茶と、妻のきたも付き添っていた。

 

  *浄土真宗による加賀の一向一揆を描いた作品です。

 

 

【感想】 

 鎌倉新仏教の1つとして親鸞が開宗した浄土真宗は、しばらくは小さな教団にすぎなかったが、応仁の乱の頃に登場した蓮如によって急速に信徒が拡大した。本願寺を中心とした教団は一向宗と呼ばれ、畿内を中心に時に一揆を起こし、時にその領地を支配する武士を追い落とす。加賀では一国を支配し、三河ではあの徳川家康も命の危険に晒された。

 その総帥で織田信長と「11年戦争」を繰り広げた顕如を描いたこの作品。だがタイトルの威勢良さとは異なって、教団の中では組織の長として問題が山積して休む間もなく、家庭では夫婦の会話が少ないと妻からは何度も小言を言われ、ついには「熟年離婚」を切り出される始末。そして長男は反抗期で父親の言うことを聞かず、まるで高度成長期の猛烈サラリーマン家庭を見ているよう。

 戦争のさ中でもあり、妻や子に対して「黙って俺の言うことを聞け」と怒鳴りたい気持ちだろうが、そこは教主。家族や傭兵の鈴木孫一の話をよく聞き、自分の思いもあるがそこはじっとこらえて、決定的な対立は回避しようとする。そんな親に対して子の教如顕如を排斥する姿は、取締役会でワンマン社長を追い落とす姿と瓜二つである

 

  浄土真宗中興の祖、蓮如ウィキペディアより)

 

 妻のきたは、朝廷や足利幕府の「古きもの」に盲従する顕如に対して不満を待ち、信長を認めて戦を止めて、妻や子を大切にしろと言うが、そこには矛盾もある。まずきたは三条家出身の生粋の公家(実姉2人は、細川京兆家の当主細川晴元の妻と、武田信玄の妻の 「三条の方」。改めて見ると、すごい三姉妹)であり、このようなことを夫に言うとは思えない。そして子を大切にしていないと文句を言うが、顕如は信長の要求に対して、子の教如を人質にすることを拒否したことで戦端が開いたこともあり、その点は理解して欲しいところ。

 ところで、一向宗徒に対する、秀吉から語られる信長の「根切り」の理由が斬新だった。一向宗は妻帯を許し、剃髪もしないため一般の民と見分けがつかないとしている。その上で信長は武将たちには厳しいが、民や足軽などに対して年貢や通行税などを軽減し、民からの信頼を得ているとしている点も興味深い。それはある意味「南無阿弥陀仏」で往生を遂げるとする一向宗の教義にも通じるものがある

 古代西洋の歴史を描く塩野七生は、ヨーロッパと対比して日本が政教分離を確立しているのは、信長の功績によるものと語っている。金と武力を支配することで、朝廷や幕府を支配する「中世の亡霊」の各宗派に対し、合理主義者の信長は徹底した武装解除を求めた。一向宗だけでなく、「山法師」として白河法皇を嘆かせた比叡山延暦寺を焼き討ちとし、「天文法華の乱」で延暦寺と共に京を廃墟にした法華宗にも、断固たる措置を取った。これにより宗教界も中世から近世への扉を開くことになる。

 

 物語は顕如が退去し、教如本願寺に残って戦いを続けるところで終わる。信長死後、顕如は秀吉と和解 して、退去した雑賀から京へと移転するが、本願寺再興の途上に5O歳で亡くなる。後継者として秀吉は、顕如退去後も3カ月戦いを続けた強硬派の教如を選ばず、石山本願寺退去時は子供だった阿茶(准如を指名した。徳川家康は更に念を入れ、対立する教如東本願寺真宗大谷派の宗主として認め、宗派を分断して、西本願寺准如との対立を煽ることで、紛争が対外的に向うことを防いだ。

 結果両派ともお互いを敵規し、その後現在に至るまで合流することはない

 

    ウィキペディアより)

 東本願寺真宗大谷派)の宗主となった教如(左)と、顕如の後継となった准如(幼名阿茶)

 

 よろしければ、一押しを m(_ _)m