小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

9 戦鬼たちの海 織田水軍の将・九鬼嘉隆 白石 一郎(1992)

    Amazonより

【あらすじ】

 合わせても500人位の軍勢しか集まらない、13もの地頭が乱立していた志摩国。そんな中九鬼家が支配する大王崎の沖に、千石船が座礁した。座礁した船は荷物と共にその土地のものとされていて、久々の大物を得た九鬼嘉隆ら一党は荷物を「略奪」する。その船には土佐の名家である一条家の娘のお咲が、伊勢神宮に嫁ぐために乗船していた。嘉隆はお咲を強引に奪い、嫁にしてしまう。

 

 そんな嘉隆の乱暴狼藉は周囲の反感を買う。地頭らが国司の名門北畠家に訴え出るも嘉隆は応じず、地頭たちは九鬼家の居城に総攻撃をかける。九鬼家唯一の砦である波崎砦に一旦逃げ込んで、そこから海戦で勢力の回復を目指すも、北畠海賊衆の小浜景隆に完敗を喫し、嘉隆は山寺に逼塞せざるを得なくなった。

 

 嘉隆に鉄砲指南にやって来た滝川市郎兵衛は、織田信長を頼るべきと進言し、縁者である滝川一益に話を繋げる。嘉隆は信長に仕えることを決意し、そのためには船の第一人者になろうと船大工の元で修行をして、造船の技術と大型船の木割図(絵図面)を手に入れる。いずれ北畠征伐を考えている信長は、北畠を仇として、また織田軍団にない海賊の能力を持つ嘉隆に興味を持ち、海賊を水軍と名を改めて召し抱える。

 

 信長に取り入った嘉隆は、滝川一益の寄騎として織田家の財力を背景に水軍を増強して、放逐された志摩の平定に取り掛かる。嘉隆は妻のお咲を側室にしてまで正室しのぶを迎える強引な政略結婚を行ない、婚礼の席で敵と味方に色分けをしようとする。婚礼に遅参した仇の小浜景隆は、しのぶの実姉を嫁としているのだが、逃亡するも追いかけて志摩から放逐して、志摩を平定した。

 

 嘉隆は織田傘下の武将として、様々な戦場へ参陣する。長島一向一揆では、川が分流して攻めあぐねる中、大船を敢えて座礁させてとし、鉄砲で攻撃する機転で勝利に導く手柄を立てた。そして石山本願寺村上水軍と織田水軍の戦いが起きると、初戦で村上水軍の武器が火力と知り、大型の鉄甲船を建造して巨大な「砦」として、村上水軍を圧倒した。嘉隆はその功績もあり、志摩3万5千石の大名に成長する。

 

  九鬼嘉隆ウィキペディアより)

 

 そんな中本能寺の変が起き、織田信長が急死する。兄の子である当主澄隆の顔つきが明智光秀に似ているといる理由で澄隆の命を奪い、主家を乗っ取る。その後秀吉に仕えるも、最終的には秀吉の不振を買い、失意のまま隠居することに。

 

 秀吉の死後に東西対決が起き、息子は徳川の東軍に従軍するが、隠居の嘉隆に石田三成から誘いの声がかかる。東軍の水軍を率いるのは憎き小浜景隆でもあり、子と分かれて西軍に与するが関ヶ原は1日で終ってしまう。家康は嘉隆の命を奪おうとするが、嘉隆は抵抗する。

 

 菩提寺の住職であるかつての家臣から、慚死した「主筋」の澄隆や先祖の墓参りをするように諭される。すると伊勢神宮に嫁入りするはずが強引に奪われて正妻に、そして側室にされ、その後30年以上も放置されたお咲がやって来る。お咲は嘉隆に声をかけず、鋭い視線で嘉隆を捉える。

 

 翌朝嘉隆は壮絶な自害をする。享年59歳。子の守隆から助命の報が届いたのは、その翌日だった。

  *第二次木津川口の戦い(歴史群像より)

 

【感想】

 信長による「本願寺11年戦争」を顕如本願寺側の鉄砲名人の鈴木孫一、織田方の鉄砲職人の橋本一把、そして村上海賊と取り上げて、最後は織田方で「鉄甲船」で有名な九鬼水軍の物語。しかし戦いよりも、九鬼嘉隆の余りに激しい生涯に圧倒された。志摩で海賊を生業とする九鬼一族で、当主の次男に産まれた九鬼義隆。温暖な土地で魚介類に恵まれて、下剋上の時代と言っても温厚な人々が多い中、九鬼家の祖は殴り込むように波切一円を乗っ取り、その後も異端児とされた。

 そんな激しい家系に生まれた嘉隆を、海を舞台とする物語では第一人者とも言える白石一郎が描いた。海に出て響く押し太鼓や「えんやさあ」のかけ声によって、潮の香りを紙面に運んでくれる。

 土佐の一条家(「夏草の賦」でも登場)は、伊勢の北畠家や飛騨の綾小路家と共に、地方で官位を持つ3大名家とされているが、その「姫」を強引に奪い、運命を変えてしまう。しかもその後は大切に扱うわけでもなく、戦いに明け暮れて長年放りっぱなし。そんな嘉隆の戦い振りを見ても当初は展望も策略も乏しく、自分の考えに合うか合わないかを基準として大局観に欠け、結果志摩から放逐される。

 九鬼水軍の名前は知っていたが、織田信長の配下になったのが「徒手空拳」の時とは知らず、これは素直に驚いた。その後は東奔西走、毎日が戦いであり、ちょっとでも「サボる」と信長は見逃さない。しかし嘉隆にはそんな信長のやり方に合っていて、武力と財力を背景に自らも知恵を出して臨機応変に動いて、鉄甲船などを実現することで信長から認められて、どんどんと出世していく。

 

  鉄甲船(歴史人tより)

 

 しかし正室も側室も省みず、兄から死に際に頼まれた甥の澄隆も、深い考えなく殺してしまう。最後に一条家の姫だったお咲が嘉隆に30年振りに会いに来るが、お咲は年老いてからも、嘉隆と最初に会った時に与えられた紀州犬を代々大切にして、同じ捨丸と名付けていたのが痛々しい

 我が儘に生きた嘉隆も、最後は家康の意向と父の狭間でもがいた子の守隆の意を汲んで自決した。しかしそれは、家康が嘉隆を日本一の船大将を恐れたことを察して、自分のプライドが満たされたためと思える。最後まで自分のために生き抜いた人生だった。

 

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