小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

6 北條龍虎伝(北条氏康)海道 龍一朗(2006)

【あらすじ】

 一介の浪人から伊豆・相模の国の国主となった「下剋上の具現者」伊勢新九郎早雲の亡き後、子の伊勢氏綱は早雲の遺志を継いで関東支配を目指す。関東管領の山内、扇谷の両上杉家、そして古河公方に調略を行なうことで勢力を分断し、扇谷上杉家との戦闘に圧勝する。そして関東の名跡、北條(条)の名を継いで名実ともに関東支配へ一歩踏み出した。

 

 そんな中遠江の高天神域城主、福島正成の子勝千代と弁千代が氏網に預けられた。勝千代は7歳で、氏網の子新九郎と同じ年だった。勝千代と新九郎は一緒に剣術の稽古をし、学問を学び、まるで双子のように成長していった。

 

 新九郎と勝千代が14歳になった頃、城下で盗賊が出没する。風祭村の奥にある風間谷に潜む盗賊に対して、新九郞は征伐ではなく諭すことで悪行を止めさせる。頭領の小太郎は氏康に感服して、以降風間一族は氏康に従うと申し出た。

 

   氏康16歳の時、初めて戦評定に参加する。扇谷上杉と山内上杉が手を組んだため、北条が不利となった武蔵の情勢を巡り議論が紛糾していたが、独自に情報収集した上で論じた氏康の意見に衆目は瞠目する。そして氏康は勝千代から名を改めた網成も共に初陣を迎える。戦は大勝利に終わったが、氏康は左頬に傷を受け、また仲間の死も目の当たりにして衝撃を受け、心にも大きな傷を負ってしまった。

 

 扇谷上杉家の当主が亡くなったのを機に、父氏綱は江戸城に続き河越城を奪取した。早雲以来念願の武蔵を支配し、関八州の支配への道筋をつけた氏網は、関東の象徴である鶴岡八幡宮の再建を手がけて亡くなった。

 

   *北條氏康(ウィキペディアより)

 

 北条家3代目当主となった氏康は、家督を継いで間もなく窮地に立たされた。まず駿河今川義元武田晴信(信玄)を援軍に従えて北条家の城を攻めてくる。その時を狙って、関東管領上杉憲政関八州の諸家に号令をかけて、6万を超える軍勢で河越城を取り囲む。河越城で籠城している将は北条家の養子となった綱成で、兵は3千余にすぎない。更に古河公方足利晴氏までもが2万余りの軍勢を率いて河越城攻めに加わった。長年敵対していた両上杉家と古河公方が初めて手を携えて、関東の大半が北条の敵に回った。

 

 氏康はまず今川義元に対して、屈辱的な和睦を受け入れ西方を収め、8千の兵で救援に向かう。包囲する軍勢は氏康の10倍の8万だが、氏康を信じた網成が籠城に耐え抜いていく。半年経過すると、長陣に飽きて上杉方の戦意は低下し、軍律は弛緩してくる。氏康の救援軍にいた福島勝広(北条網成の弟)が使者を申し出て、単騎で上杉連合軍の包囲を抜けて河越城に入城、兄の綱成に奇襲の計画を伝えた。いよいよ「日本3大奇襲」の1つと呼ばれる「河越の夜襲」が幕を開ける

 

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北条氏康の偉大な祖父を描いた物語。

 

【感想】

 北条氏康を描く作品。但し元服前の描写は詳しいが、家督を継いで間もなくに起きた「河越城の夜襲」をピークとして物語を終わらせているのが残念。因みに中世までは「河越」、江戸時代以降は「川越」と表記する。更に「北條」と「北条」は旧字体の違いで、意味に違いはない。

 その後の生涯も続けて描いたら大河ドラマの原作になったのではないかと、初読の時は思ったもの。初代早雲が持つ「梟雄」の雰囲気、そして早雲の意向を受け継いだ2代目氏網の智謀と戦う姿は、大河ドラマの主題の1つ「偉大な父を乗り越える」存在に相応しい。

 対して北条氏康は子供の時から冷静で知略が回り「氷龍」と呼ばれる。剣術、武略を学び,そして僧侶から「仕置」の心得を学ぶ。逆らう者たちを叩き伏せて従わせるだけでなく、その者たちを生かすためにどうすればいいのか。それを盗賊退治で実践して、風魔小太郎を味方に引き入れ、独自の防諜網を築き上げる。その情報を元にした戦略は、若いながらも評定で経験深い重臣たちも唸るほどの状況判断と知略を見せて、次期当主としての存在感を示す。

  *父、北条氏綱ウィキペディアより)

 

 ところが父氏綱が亡くなり家督を継ぐと、周囲はここぞとばかりに北条家に戦いを仕掛ける。関東の反北条勢力を結集して拠点の河越城を、10倍を超える軍勢で攻め立て、北条側は絶体絶命のピンチに陥る。「焔虎北条網成が籠城で耐え続けている間、氏康は低姿勢に終始して兵も退かせて、長期間さしたる戦いもなく城を包囲してきた敵を油断させた。氏康はそこを突いて、籠城している網成と気脈を通じて一気に両上杉勢に突入する。包囲軍は大混乱に陥って、扇谷上杉家の当主上杉朝定は討死山内上杉家上杉憲政は何とか脱出したが、両上杉家の名だたる重臣たちも討ち死にする大敗北を喫した。古河公方足利晴氏も壊滅状態となり本拠地の古河へ遁走する。この戦闘で包囲軍の死者は1万を超えた。

 これにより当主を失った扇谷上杉家は断絶。逃走した山内上杉家の憲政は越後に逃げ長尾景虎上杉謙信)を頼る。そして古河公方は後に氏康に囚われて完全に力を失った。足利幕府開幕以来、関東で戦闘を繰り広げてきた公方と関東管領上杉家は200年を経てそろって関東から駆逐され、氏康が関東の覇権を握った

 氏康は上杉謙信武田信玄両雄が小田原城に攻め込んでも凌ぎ切って、30年に渡り北条家に君臨して全盛を築く。一方「地黄八幡」の旗を掲げ、数々の戦闘で武勇を発揮した「焔虎」網成は武田軍の援軍で川中島の戦いにも参戦し活躍して、73歳の天寿を全うした。

 

*そして遂に北条氏康の生涯を描く物語が書き進められています。果たして大河ドラマの原作となるか・・・・?