小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

9 蝦夷太平記 十三の海鳴り 安部 龍太郎 (2019)

【あらすじ】

 鎌倉時代末期の奥州(青森)。津軽太守安藤(東)文太郎季長の三男、安藤新九郎季兼は19歳。身長は190Cmを越える巨漢で、大太刀を振るう怪力の持ち主。三男で側室の子のため本家とは離れた場所で育っていたが、父季長から呼び戻されて出羽で起こった反乱を鎮圧せよと命じられる。蝦夷管領としての季長の政策に不満をもつ者たちが、渡党(アイヌと組んで反乱を起こし、新九郎の兄で季長の次男にあたる季治が殺されたという。だが、普段渡党と親しくしている新九郎は信じられなかった。調べると、反乱の首謀者が一門の有力者、安藤五郎季久であることがわかる。

 

 当時は北条得宗家が全国の海運を支配することで莫大な利益をあげていた。その要となるのが日本海と太平洋の海運をつなぐ津軽海峡であり、この地域を支配する安藤(東)家だった。さらに得宗家は元寇のあと元との交易を盛んに行い、上納金を独占していた。ところが得宗家は朝廷が反乱を企んでいることを知り、軍備増強のためにも上納金をむやみに増額させ、そのことが蝦夷管領から代官、民、そして渡党へとしわ寄せが起きていた。

 

 そしていとこの安藤五郎季久は、元々は「外の浜安藤家」として管領を命じられていた一族だが粗相を起こしたために、「西の浜安藤家」である季長の家系に管領職が移ったことに不満を持っていた。

 

 新九郎はその類いまれな体格と、悪い予感には寒気がする「自然人」としてに資質から、危険を回避する能力があった。時に「死の壁」と呼ばれる絶壁のような海流を渡りきり、時に見上げるような凶暴な熊と立ち向かう。そして信用できない人物に対しては鼻が疼く奇癖がある。後醍醐天皇の倒幕密議が漏れて、その嫡子大塔宮護良親王北畠親房を伴って安藤季長の元に身を寄せた時は、親房に対しては鼻が疼く。一方護良親王とは言葉を交わさなくても言霊でお互いの心根が通じ合う経験をする。

 

 蝦夷管領安藤季長は強引な上納を求める得宗家に対して、朝廷と呼応して叛旗を翻すが、時期尚早で朝廷は反乱に至らなかった。単独での反乱のため幕府軍に攻め込まれ、季長は生け捕りにされて鎌倉に送られてしまう。

 

 残された新九郎は「外の浜安藤家」と「西の浜安藤家」が協力して弘前半島一帯を支配するよう手を結ぶ。また元々新九郎の許嫁だった照手姫は渡党の族長の兄にあたるイタクニップと一緒になって宇曾利(下北半島を支配、そして自分はマトウマイ(松前に拠点を置いて渡党の女性イアンバヌと一緒になって、渡党とともに蝦夷地から協力して、幕府にでも朝廷にでも対抗できる、独自の勢力を作り出そうと決意する。

  *十三湊を含んだ関係図(本作品より)

 

【感想】

 前回取り上げた高橋克彦著「時宗」で、出家した時頼が幼い嫡子時宗を連れて諸国を旅した時、最初の目的地は弘前半島の日本海側にある十三(とさ)湊だった。そこは日本海航路の終点にあたり、鎌倉にも劣らない大きな館が建ち並ぶ街と描かれ、十三湊から二人は船で一路博多へ向かっている。司馬遼太郎菜の花の沖」で西回り航路が描かれていたが、この時代から日本海の航路は既に発達していた。また「国難元寇のあと元との交易が盛んになることで貨幣経済が浸透し、御家人が貧窮していく流れを改めて確認する。

 1325年に起きた「安東氏の乱」は本作品を読むまで不承知だった。北条得宗家が日本海から津軽海峡を渡って鎌倉に至る交易を支配し、その要と言える十三湊を支配する安東家が財力で大きな力を保持していたことも、本作品を読んで初めて知った。

 安東家の乱によって一族が2分され、アイヌの反乱が絡んで争いが大規模になっていく。それぞれが幕府に賄賂を贈ったために確たる裁断ができず,それが北条得宗家を窮地に追い込み、ひいては幕府の崩壊につながったとされている。

 しかも元寇の3年後(1284年)にアイヌが軍勢1万を率いる元とアムール川流域で激突し、その争いの決着は24年かかったという元寇で日本の危機が叫ばれていた同時期にアイヌ民族が独自に戦っているとは驚きである。そして争いの原因が、日本の鎌倉や京都で高く売れた鷹の羽根をアイヌが確保するために、元の領地に住んでいる鷹狩りの名人をアイヌに連れてきたからだということも、新鮮な驚きだった。

ja.wikipedia.org

 

 時系列で見ると、安倍龍太郎の手からなる「太平記三部作」の最初にあたる作品だか、印象は「太平記前史」に読める。

 本作品で作者の安部龍太郎は、主人公の安藤新九郎を縄文人のイメージで描いたと語り、豊かに獲れる鮭鍋や熊鍋などを食している様子が描かれる。対して朝廷と幕府は近畿地方弥生人たちと、その文化に影響を受けた東国武士たちで構成されている。

 

  「弥生文化のように、土地を所有して農業を始めると、土地や水をめぐって争いが起きます。一方、縄文文化のように、海や山で獲物を追っていくなら、猟場を争わない限り、戦争する必要はないわけですよね。だから、おそらく縄文人たちは非常にのどかに共存していただろうと思うわけです。原日本人が住んでいた頃の蝦夷や東北はある意味でユートピアだったんじゃないかな、と思っています」 (作者インタビュー)

 

 十三湊から南へ15キロほどで、縄文時代後期とされる遮光器土偶で有名な亀ヶ岡遺跡が、そして南東に50キロほどでやはり縄文時代の中期とされる三内丸山遺跡がある。私が認識不足だった、太古から繁栄していた青森県津軽地方。その遺構はそのまま司馬遼太郎のライフワーク「街道をゆく」で、全43巻中唯一タイトルに地名がつかない作品「北のまほろに描かれている。

 

司馬遼太郎は自宅(大阪)から一番遠い所を理由として弘前大学を受験(不合格)しています。当時から青森に対して特別な目で見てきたようで、その気持ちが「北のまほろば」のタイトルと内容に表れていると感じます。