小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

11 我、弁明せず(池田成彬)  江上 剛 (2008)

【あらすじ】

 米沢藩士で江戸留守居役を父に持つ池田成彬(しげあき:小説では「せいひん」とルビをふっている)。慶應義塾からハーバード大学に留学し、当初希望していた新聞記者を目指し時事新報社に入社する。しかし主宰を務める福沢諭吉の考えに合わず、また給料の不満もあってわずか3週間で退職し、三井銀行に転職する。寡黙な性格ながら豊富な知識に裏打ちされた判断力、そして周囲に惑わされない性格から次第に信用されて出世街道を歩む。三井銀行のトップから、団琢磨血盟団事件で凶刃に倒れた後に三井合名会社の理事となり、当時日本で最大の影響力を保持していた三井財閥のリーダーとなる。

 その人望は政界にも及び、日銀総裁、大蔵大臣兼商工大臣、枢密顧問官を歴任、一時は総裁候補に擬せられた。軍事色が強まり財閥が敵対視される中、親米派として扱われ、合理主義者として世間と軍部の悪評を浴びるも己の信念を貫き、「財界最後の古武士」と言われた人生を描く。

 

【感想】

 上杉米沢藩15万石は、明治維新の際に佐幕派として幕府に協力したため賊軍扱いされたが、その藩ゆかりの人物として日銀総裁を3人も輩出した。池田成彬。池田が病気で退任した後を託した結城豊太郎。そして池田の甥にあたり、三菱財閥の岩崎家とも縁がある宇佐美洵。後の2人は「池田繋がり」と言えるが、日本銀行の仙台支店長は、代々就任後米沢に訪問し、3人の日銀総裁ゆかりの地を訪れたという。

   池田成彬ウィキペディアより)

 

 池田は寡黙で若い頃から自分の信念を貫き通した。慶應義塾時代は、賄いの食事改善のストライキにただ1人「食事のために入塾したわけではない」と言って同調しなかった。また奨学金が出ることでハーバード大学に留学したが、渡米すると奨学金の条件が「貧乏であること」と判明する。池田はそれを聞いて受給申請を潔しとせずに申請せず、その替わりに当初の説明が違った慶應義塾に善処を迫るほどの剛直振りを示した。決して「名を捨て実を取る」ことをしなかった。

 三井銀行に入社してからは、現場での経験が乏しかったが、その融資判断は経営者の人間性を見抜くことと、財務諸表の分析を「行ったり来たりして悩みながら」会社の実情と将来性を分析するという、部下も納得してかつ現代にも通じる基準を示した。その象徴が本作品の冒頭部。鈴木商店の番頭、金子直吉と面談して経営能力の問題点を指摘し、判断した後は速やかに債権回収を命じる。この場面を最初に持ってきたのは、旧第一勧業銀行出身で利益供与事件において辛酸をなめた作者・江上剛から見て、思うところがあったはず。そして池田の人間性を読者に印象付けることにも成功している。

 また池田と交流のあった井上準之助が金解禁の最中に、余りにも不景気が進行したので、政策の継続を迷って池田に相談をする「弱気」な面を描いている場面も興味深い。経済小説の大家・城山三郎の代表作と言える「鈴木商店焼き討ち事件」と「男子の本懐」の主人公を、池田の視点を使って従来とは違う面をうまく表現している。

 三井財閥の実質的な総帥で、池田の岳父だった中上川彦次郎が早くして亡くなり、そのライバルだった益田孝は慶応閥の排除を目論んだが、その益田も池田の実力は認めた。その後を継いだ団琢磨とも忌憚のない意見を取り交わし、団亡き後は三井の総帥を継ぎ、軍部から、そして国民から反感を招いた時代にも自分の信念を貫き通す。その姿は、協調派からは「最後の砦」として映るが、反対に軍部からは徹底的に目の敵にされる。東条英機から「軍門に降る」条件として、長男の兵役免除を打診されるが断り、結果長男は戦死することになる(これだけでも、東条を認める気にはなれない!)。こんな時でも池田は、「名を捨て実を取る」ことはしなかった。

  福沢諭吉の甥で池田成彬の岳父、中上川彦次郎。池田だけでなく、小林一三武藤山治など、名だたる経済人を育成したが、益田孝との対立によって追い落とされてしまう(ウィキペディアより)。

 

 戦後は自ら身を引くが、特に大磯で近所の吉田茂などから意見を求められることも多かったという。それでも最後まで「古武士」としての不器用な生き方を貫いた。その姿は、関ヶ原の戦いでも筋を通して徳川家康に叛旗を翻した、米沢藩上杉景勝直江兼続の姿と重なる