小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

6 儲けすぎた男 小説・安田善次郎 渡辺 房男(2010)

【あらすじ】

 加賀前田藩の支藩、富山藩で士族の株を買うも最下級の足軽で、その実態は農民と変わらない家庭に生まれた安田善次郎。士族の身分に固執する父に見切りを付けて、江戸に出て商売によってみを立てようとする。両替商に奉公した後に独立した安田は、幕末から明治にかけての乱世にかけて、皆が尻込みする中に思い切った判断で「裏」を張り続けて成功し、たちまち名と財を成した。

 幕府崩壊直前に勘定奉行から依頼を受けた古金や古銀の回収。まだ信用が確立していない新政府が発行した太政官札の買い占め。士族公債の取扱。そして新貨幣の両替など、皆が危険を感じて手を引く取引に、独特の才覚と「果断」で取り組んで連戦連勝、ついには三井、三菱、住友と並ぶ4大財閥の1つ、安田財閥を築き上げる。

 

【感想】

 奉公時代に1歳年上の大倉喜八郎と知り合い、82歳に「非業の死」を迎えるまで交流が続いた安田善次郎大倉喜八郎が「八方美人になるから」と言って避け続けた銀行経営だが、安田は反対に金融業を「天職」と捉えて取り組んだ。江戸時代に独立して個人商店として始めた両替商は、相手への「サービス」を考えて、大八車でお金を運んで、同じ場所で同じ時刻に出張して両替を行い、信用を広げるなどの地道な営業を重ねていった。

   安田善次郎ウィキペディアより)

 

 風雲急を告げる幕末に依頼を受けた、価値が高い古いお金の回収は、幕府の将来性と共に治安の問題から身の危険も予想され、同業者は皆手を引いたが果敢に引き受ける。案の定身の危険も何度か遭遇したが、機転と信念で危機を回避して、独立して間もない個人商店としては破格の財を成す。

 明治維新後は更に勢いを増す。あらすじに書いた通り、当時信用がなかった新政府の「御用」に対しても、失敗すれば破産するくらいの「勝負」を何度も張り、勝ち続ける。その商売の姿勢に新政府からの信用も集めて商売の規模は拡大し、ついには国家予算の8分の1に相当する財産を築き上げるまでに至った。そして自ら設立した安田銀行(→富士銀行→みずほ銀行を中心に、安田財閥もしくは富士の別名から「芙蓉グループ」として、戦後まで続く4大財閥の1角を締めることになる。

 三井、住友は江戸時代から既に確固たる商売の基盤があった。三菱は明治になってからの創立だが、その基礎は土佐藩の商業部門であり、こちらも江戸時代に基盤はあった。対して安田が築いた財閥は、全くの徒手空拳から、しかも三井・三菱のように政府内の有力者に食い込んだわけでもなく、「政商」色は比較的薄い。実質、安田善次郎の才覚のみで巨大財閥を築き上げたに等しく、ある意味明治期最大の経済人と言えるかもしれない

 合理的な性格でもあり、その蓄財ぶりと、寄付行為は余り宣伝しなかったこともあり、世間からは「守銭奴」のイメージを持たれたが、安田は自ら努力しない者は軽蔑し、寄付も災害の被害者など、目的を持って行っていた。但しそれは裏目に出た。言い訳をせずに「陰徳を積む」行為は、寄付とは本来そうあるべきだが世間からは誤解を生み、ついには国粋主義者から暗殺という形で人生を終えることになる。

 「五十、六十は洟垂れ小僧、男盛りは八、九十」と言った安田。自身もその通り死ぬ間際まで事業に、そして多彩な趣味にと「男盛り」を満喫した。但しその言葉が、「その座に相応しくない」にも関わらず引退しない政財界の長老の「言い訳」になってしまったことは残念である。

 戦後の財閥解体でいち早く持ち株会社を解散して、また吸収・合併もあり「安田」の名前が残る会社は少なくなったが、安田善次郎が死ぬ間際に決断した巨額の寄付によって建設された東大安田講堂は、今もその存在感を残している。

  *東大安田講堂ウィキペディアより)

 

 そして文化人としての血脈も子孫に受け継がれた。曾孫(ひまご)に前衛芸術家が生まれ、その芸術作品をあるミュージシャンが関心を持ったことから結婚する。そして結婚後はオノ・ヨーコとして、夫ジョン・レノンと共に名前が世界に広まることになる。