小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

12 日産コンツェルンを作った男(鮎川義介) 堀 雅昭 (2016)

【あらすじ】

 鮎川義介は明治13(1880)年、旧長州藩士を父として生れるも、大叔父で明治の元勲・井上馨からは「これからは政治家も軍人もいらない。技術者を目指せ」と言われて東京帝国大学の工科を卒業し、芝浦製作所(現在の東芝)に、当初は身分を隠して入社する。そして職工として日給の条件で働き、技術を磨いていく。その後渡米し、当時最先端であったグルド・カブラー社で鋳鉄技術を学び、準備期間は終る。

 井上馨の支援を受け、明治43(1910)年に現在の日立金属となる戸畑鋳鉄を創立し、実業家への道を歩み始める。また昭和3年には義弟で後に「政界の黒幕」と呼ばれる久原房之助が経営していた久原鉱業が経営危機に陥ったことから、支援を求められて事業を継承。そして日産自動車日立製作所、日本油脂、日本科学などを傘下に収めた日産グループを築き上げた。

 

【感想】

 長州閥で元勲・井上馨を大叔父に持つ鮎川義介は、当初から恵まれた位置にいたと思われた。しかし井上からの助言もあり、政治家も軍人も目指さず、技術者からスタートしたのは興味深い。井上自身も、幕末に長州からイギリス留学した「長州ファイブ」として西洋技術を学ぶ目的があった。しかし井上と伊藤博文は、下関戦争など長州の逼迫した状況を憂いて留学途中で帰国。事態打開に奔走してそのまま政治家になった。残り3人は予定通りイギリスで技術を学び、帰国後明治新政府で財務、鉱山、鉄道の面で有能な官僚(テクノクラート)として、文明の発展に寄与している。

    鮎川義介ウィキペディアより)

 

 そして鮎川は当初、技術を学ぶことを徹底して行っている。井上を親戚に持ち、東京帝国大学を卒業した学歴を隠して職工として働き、技術の基礎から学ぶ姿勢には頭が下がる。司馬遼太郎の名作「坂の上の雲」の挿話に描かれた、ロシアのピヨートル大帝が、先端技術を学ぶために自ら職工として働いたエピソードを思い出す。但し「小説 野村證券 財閥が崩れる日」では、鮎川は長州出身で政府にも顔が利く、抜け目のない上昇志向が強い人物として描かれている(野村徳七は鮎川の義弟、久原房之助が経営する久原鉱業の相場で巨額の富を掴み、財閥として確固たる地位を築いている)。

 あらすじは戦前までの日本での活躍にとどめているが、その後鮎川は満州に進出する。ドイツ系ユダヤ人を満州に移住させて満州を開拓させて、また隣接する大国・ソビエトの防波堤になることを目論む論文を発表し、新時代の官僚や軍人、そして若手実業家を巻き込む。話は脱線するが、この時鮎川が書いた論文は後に「河豚計画」に発展し、さらに時代を下って描かれたゴルゴ13の名作「河豚の季節」の源流となっている。

 満州国に自分の中核会社である日本産業を移転させ、同時に満州国顧問や内閣顧問などのポストを歴任し、満州国で実力者と呼ばれた「二キ三スケ東条英機星野直樹岸信介松岡洋右鮎川義介」の1人に数えられるまでになった。

 ところが鮎川は冷徹に、戦争は日本が敗北する予想を立てて、徐々に満州から撤退する。戦後は戦犯として巣鴨プリズンに収監されるも、容疑は晴れて釈放される。但し釈放後は、日産グループからは距離を置いて、参議院議員や、岸信介の縁で経済顧問を務めながら、外資を利用して融資を行う中小企業の育成に尽力を傾ける。

 今でいうベンチャーキャピタルの先駆的な発想。昭和41年に死去するが、その志は孫の純太が引き継いだ。マサチューセッツ工科大学経営学を学んだあと、ベンチャーキャピタルによって中小企業を支援するテクノベンチャーのCEOとなる。一時、杉田かおると結婚して妙な形で名前が広まったが、祖父に似て基礎をじっくりと学び、地に足のついた経営者と感じる。

   鮎川純太(アクセスジャーナルより)