小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

5 IBMを震え上がらせた男 柏原 久 (1986)

 かんき出版(Amazonより)



【あらすじと感想】

 池田敏雄が入社してすぐの1947年の秋、富士通では電話機のダイヤルの作動にトラブルが起きる問題が発生した。池田は約1年をかけて、力学の基本である運動方程式を立てるところから始まる徹底した解析を行い、原因を突き止める。

 1954年には日本初のリレー式計算機「FACOM 100」を開発し、真空管を使った計算機よりも速度は遅いが、安定して寿命が長く、ノーベル賞受賞者湯川秀樹が「人手では2年はかかる計算を3日で解いた」と高く評価した(現在ではものの数秒で計算できるという)。

  *池田敏雄とFACOM100

 

 1964年にコンピュータ業界のガリバー、IBMはMSI(集積回路)を搭載する、全てのシリーズでアーキテクチャ(互換性)を持つSystem/360を開発する。これによって日本のコンピュータ業界も影響を受け、富士通もそれまでの独自路線から変更を余儀なくされ、IBM互換機を制作する必要に迫られた。時にIBMで「その」System / 360を設計した天才肌のアムダールは、IBM上層部と対立し、1969年に独立して富士通が支援することになった。

 但し余りにも天才肌のアムダールは細部の設計にこだわり、開発が遅れに遅れ、資金不足が顕著になる。池田はその調整に追われ、日米間を往復することになるが、その過激なスケジュールに耐え切れず、1974年11月、羽田空港くも膜下出血により倒れて、意識不明のまま亡くなる。享年51歳。

  池田敏雄とアムダール

 

 1970年に富士通は日本のコンピュータメーカーでシェア1位となったが、池田の死後1週間後に発売されたFACOM M-190富士通初のIBM互換機。集積回路を採用した超大型機で当時、世界最大・最速を誇り、日本のシェアを席巻し、1979年にはIBMも抜いてシェア1位になる。

 子供の頃から数学に秀でていたが、背が高くバスケットボール部に誘われ、高校時代は全国優勝を成し遂げる。柔道も2段のスポーツマン。囲碁も玄人はだしで新しいルールを研究している。音楽にも造詣が深く、ベートーベンの同じ曲を、演奏家別に聞き分けて楽しんでいた。

 池田は何かアイデアを考え始めると、職場・自宅のほか、同僚の家でもひたすら考え続けたという。ついには出社することさえ忘れ、夕方になって突然会社にやってきて、今度は会社から帰らずに数日考え続けたというエピソードもある。池田のような天才は現代では現れないと言われるが、池田の才能を生かす組織が現在の日本にあるだろうか。池田が在籍していた当時の富士通にはこうした奇行を受け入れる社風が存在し、池田の天才的能力を生かせるだけのメンバーが揃っていた。

  *FACOM M-190

 

 本作品を読んだときは、その人間像と活躍内容に鳥肌が立ったことを覚えている。余りにも鮮烈で短い、されど大きなものを成し遂げた人生。その後池田敏雄をテーマとして、田原総一朗がノンフィクションで上梓し、「プロジェクトX」で放映される。

 その遺伝子は次世代にも継承された。国家プロジェクトとして富士通理化学研究所で共同開発された「」は2012年に完成、一時期「2位じゃダメなんですか」と言われたが世界一を目指し、その性能は世界で認められる。そしてその後継機種「富嶽」で名実ともの世界一を奪取することになる。彼ら技術者の中には、生まれたときには既に亡くなっている池田の業績と話題が刷り込まれていた。

 池田敏雄の社葬のおり、経団連記者クラブから是非にと弔辞の申し入れがあった。異例ではあるが、池田敏雄を慕う記者の代表がその死を悼んで読んだ。そのなかで代表した記者は、「天馬空を行くがごとき活躍」と二回言って思わず絶句、その後の言葉が続かなかったという

 

田原総一朗が描いた池田敏雄 (写真は富士通のHPから)