小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

8 叛骨 陸奥宗光の生涯 津本 場(2016)

【あらすじ】
   紀伊藩の名門の家臣に生まれた伊達小次郎(後の陸奥宗光)は、父が藩内の政争に敗れ失脚したため江戸へ出奔、その後神戸海軍操練所に入ると坂本龍馬と出会い、海援隊に参加する。倒幕運動にも携わり、長州の伊藤博文などとも知遇を得る。坂本からは「刀を二本差さなくても食っていけるのは、おれとおまえの2人だけだ」と言われ、反抗的な性格ながら、龍馬に対しては尊敬の念は失わなかった。


 しかし敬愛していた坂本龍馬が幕末の混乱で暗殺された。その後新政府に出仕、会計掛として新政府の財政を支えるために、当時兵庫県知事だった伊藤博文とも連携して、大坂商人から資金を供出させることに成功する。そして伊藤の後任の兵庫県知事や神奈川県令なども歴任し実績を上げるが、新政府の藩閥人事に反発して何度も辞表を提出することに。最後は故郷の和歌山で近代化を進めていた津田出 (いずる)と共に、政府に先行して徴兵制度なども進めた。目の見張る成果に、西郷隆盛を始め新政府の要人たちは津田や陸奥に注目し,明治政府が徴兵制や廃藩置県を行う上でのテストケースにもなった。 


   その後自由党を設立した板垣退助の知恵袋となり、民権化に向けて交渉を進めて行ったが、大久保利通を中心とする政府は、国権を優先して譲歩する兆しは見えない。業を煮やした陸奥西南戦争を機に土佐立志社林有造大江卓らと政府転覆を共謀するが翌年に発覚し、禁銅5年の刑を受け投獄された

 

   陸奥宗光ウィキペディア



 山形監獄に収容された陸奥は、獄中で勉学に打ち込んだ。政府も実権は暗殺された大久保から、陸奥の朋友でもある伊藤博文に移る。伊藤は陸奥を、施設の整っていた宮城監獄に移すなど配慮し、1983年特赦によって出獄を許されるとあちこちから声がかかるが、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。


 帰国後は外務省に出仕、1888年駐米公使となり、メキシコとの間に日本最初の平等条約の締結を成し遂げ、華々しい外交の成果を上げる。山県内閣では農商務相に初入閣し、その後元勲内閣と呼ばれた第2次伊藤内閣で満を持して外務大臣に就任。1894年イギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、幕末以来の不平等条約である領事裁判権の撤廃に成功する。 


 同年、朝鮮で内乱が起きると清の出兵に対抗して派兵し、イギリス、ロシアを戦争に介入させず、「陸奥外交」と呼ばれる外交手腕で日清戦争を主導する。戦勝後は伊藤博文とともに全権として清国代表の李鴻章と交渉、列強と駆け引きを演じながらも、日本の意向を通して戦争を終結させた。しかし露、独、仏の三国干渉を招き、戦争で得た遼東半島を清に返還せざるを得なくなる。


 陸奥はこの外交手腕とカミソリと言われた頭脳で、政界で大きな存在を示す。しかし既に陸奥は肺結核を患っており、その後の活躍の場はなかった。外務大臣を辞したあと療養生活に入り、l897年肺結核のため死去する。享年64歳。 

 

 

 

 

【感想】
  カミソリと言われた頭脳を持つ外交家の陸奥宗光。しかし不遇な幼少時代を通して、物事を斜に構える性格に成長した印象がある。余り周囲には好かれない性格だが、司馬遼太郎の名作 「龍馬がゆく」では、坂本龍馬には絶対的な忠誠心を持つ知恵袋として描かれている。

 

 

 

 そのため大隈重信に対しては、龍馬が抱いた印象と同じ「口舌の徒」として、覚悟がないと見抜き、新政府で上司に就任したと決まると、働く前から辞表を提出する始末藩閥人事が横行する人事によって周囲が愚かに見え、なおかつ龍馬が描いた新しい日本からどんどんと離れていく姿に、忸怩たる思いがあったのだろう。政府に対しては文句を言い、官もすぐに辞職して、遂には政府転覆の陰謀にも関わってしまう。「叛骨」ここに極まれり
 私は昔から陸奥宗光の履歴を見て、なぜ政府転覆の罪で投獄された人物が、外務大臣まで上り詰めたのかが不思議だった。そのタネは、旧友である伊藤博文の支援があったから。幕末の長州藩が危機に陥った時に、海援隊の力によって最新の武器を購入した時の、商売の窓口相手。陸奥は性格に難はあるも、優秀な頭脳を理解していてた伊藤は、陰になり陸奥が再起するまで支援を続ける。伊藤の優しさと面倒見の良さが、宰相まで押し上げられた原因だろう。
 そんな伊藤の気持ちを感じてか、陸奥は若い頃の毒気が抜けたかのように,伊藤にそして新政府のために脇目も振らず働いていく。その「転向」は陸奥の書生で民権派の先頭を走っていた星周 (あまね)が、洋行から戻ると「国権派」に転向したかのようである。 
   しかし陸奥はそんな伊藤に対しても苦言を止めない。周囲を魅了する演説は時に周囲が意見を言う機会を失うと述べたが、これは自分自身への戒めのようにも思える。板垣退助に対しては、「人の資性をみることがきわめて下手である」と佐々木高行に語っている。

 

  

 *伊藤博文岩倉具視板垣退助に続いて、肖像画を紹介した形になりました。


 勝海舟陸奥宗光に対して「あの男は、統御するの人を得たら、十分才を揮うけれども、その人を得なければ、不平の親玉になって、眼下に統領を踏みつける人物だ」と言わしめている。まさに不平の親玉。勝は統御する人物として大久保を想定していたようだが、陸奥から見ると生涯の師は「度量海の如し」と言われた坂本龍馬ただ1人だったかもしれない。 

 

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