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【あらすじ】
紀伊藩の名門の家臣に生まれた伊達小次郎(後の陸奥宗光)は、父が藩内の政争に敗れ失脚したため江戸へ出奔、その後神戸海軍操練所に入ると坂本龍馬と出会い、海援隊に参加する。倒幕運動にも携わり、長州の伊藤博文などとも知遇を得る。
しかし敬愛していた坂本龍馬が暗殺された。その後新政府に出仕、当時兵庫県知事だった伊藤博文とも連携して、大坂商人から資金を供出させることに成功する。そして伊藤の後任の兵庫県知事や神奈川県令なども歴任し実績を上げるが、新政府の藩閥人事に反発して何度も辞表を提出する。最後は故郷の和歌山で近代化を進めていた津田出 (いずる)と共に、政府に先行して徴兵制度などは、明治政府が徴兵制や廃藩置県を行う上でのテストケースにもなった。
その後板垣退助の知恵袋となり自由民権運動を進めるも、政府に歩み寄りは見られない。譲歩する兆しは見えない。業を煮やした陸奥は西南戦争を機に、土佐立志社と政府転覆を図るが翌年に発覚し、禁銅5年の刑を受け投獄された。
*陸奥宗光(ウィキペディア)
大久保の暗殺で実権を引き継いだ伊藤博文は、収監中の陸奥を陰ながら配慮し、1983年特赦によって出獄を許されると、伊藤の勧めもあってヨーロッパに留学、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。
帰国後外務省に出仕すると、1888年駐米公使となり、メキシコとの間に日本最初の平等条約の締結を成し遂げる。山県内閣では農商務相に初入閣し、その後元勲内閣と呼ばれた第2次伊藤内閣で外務大臣に就任。1894年イギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、幕末以来の不平等条約である領事裁判権の撤廃に成功する。
同年勃発した日清戦争では、イギリス、ロシアには介入させない「陸奥外交」で辣腕をふるった。戦勝後は伊藤博文とともに李鴻章と交渉、外交の果実を勝ち取った。しかし露、独、仏の三国干渉を招く。
しかし既に陸奥は肺結核を患っていた。外務大臣を辞したあと療養生活に入り、l897年肺結核のため死去する。享年64歳。
【感想】
カミソリと言われた頭脳を持つ外交家の陸奥宗光。しかし不遇な幼少時代を通して、物事を斜に構える性格に成長した印象がある。余り周囲には好かれない性格だが、司馬遼太郎の名作 「龍馬がゆく」では、坂本龍馬には絶対的な忠誠心を持つ知恵袋として描かれている。
そのため大隈重信に対しては、龍馬が抱いた印象と同じ「口舌の徒」として、覚悟がないと見抜き、新政府で上司に就任したと決まると、働く前から辞表を提出する始末。藩閥人事が横行する人事によって周囲が愚かに見え、なおかつ龍馬が描いた新しい日本からどんどんと離れていく姿に、忸怩たる思いがあったのだろう。政府に対しては文句を言い、官もすぐに辞職して、遂には政府転覆の陰謀にも関わってしまう。「叛骨」ここに極まれり。
私は陸奥宗光の履歴を見て、なぜ政府転覆の罪で投獄された人物が、外務大臣まで上り詰めたのかが不思議だった。津本陽の平易な、それでいてツボを外さない本作品から、旧友である伊藤博文の支援があったから、と教えてもらった。幕末の長州藩が危機に陥った時に、海援隊の力によって最新の武器を購入した時の、商売の相手同士。性格に難はあるも、優秀な頭脳を理解していてた伊藤は、陰になり陸奥が再起するまで支援を続ける。そんな伊藤の優しさと面倒見の良さが、宰相まで押し上げられた原因だろう。
伊藤の気持ちを感じてか、出所後は、陸奥は若い頃の毒気が抜けたかのように,伊藤にそして新政府のために脇目も振らず働いていく。その「転向」は陸奥の書生で民権派の先頭を走っていた星周 (あまね)が、洋行から戻ると「国権派」に転向したかのようである。
しかし陸奥はそんな伊藤に対しても苦言を止めない。周囲を魅了する演説は時に周囲が意見を言う機会を失うと述べたが、これは自分自身への戒めのようにも思える。板垣退助に対しては、「人の資性をみることがきわめて下手である」と佐々木高行に語っている。
*伊藤博文。岩倉具視、板垣退助に続いて、肖像画を紹介した形になりました。
勝海舟は陸奥宗光に対して「あの男は、統御するの人を得たら、十分才を揮うけれども、その人を得なければ、不平の親玉になって、眼下に統領を踏みつける人物だ」と言わしめている。まさに不平の親玉。勝は統御する人物として大久保を想定していたようだが、陸奥を御し得たのは、「度量海の如し」と言われた坂本龍馬,と、伊藤博文の2人に過ぎない。そしてこの2人の下でしか、その才能を発揮できなかった。 しかし「カミソリ」が姿を表すと。叛骨を生む剛直な性格と合わせて、欧米列強とも互角に渡り合う外交手腕が発揮される。
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