小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

17 回天の門【歴史物】(1979)

【あらすじ】

 庄内藩にある清河村の斎藤元司は、村の素封家で酒造りをする家の跡取りで、年から遊郭に出入りするような遊蕩児であった。元司は学問をする傍ら、家を訪ねてきた絵師・藤本津之助から、外の世界について様々のことを聞いて、江戸への憧れを持つ。

 

 江戸行きが許され東条塾に入塾し、頭角を現わすようになった。しかし弟が死ぬと清河村に戻され、鬱々とした日々を過ごす元司は、期限を区切って遊学を許してもらう。江戸に戻って東条塾の隣の千葉道場に入門すると、元司は剣術も学問も長足の進歩を遂げていく。

 

   清河八郎ウィキペディア

 

 その頃ペリーが来航し、世間は混乱する。清河八郎と名乗り始めた元司は、念願の清河塾を開くも、果たして塾を開いているような時勢だろうか、と疑問に思う。そんな時桜田門外の変の報を聞いて、八郎は慄然とした。自分と同じ名も無き者たちが、天下を動かしつつある現実に直面する。そして新たに八郎が見えてきたもの。それは幕府に取って変わる新しい政治の仕組みであった。まずは虎尾の会という志を同じくするものの密会を作った。八郎の心にあるのは倒幕であった。

 

【感想】

 清河八郎司馬遼太郎が描いた「奇妙なり八郎」では、あちらこちらの勢力を利用する「策士」と断じられている。倒幕勢力を結集する目的だったのに、新撰組を生み出してしまうなど、剣術で同門(千葉道場)の坂本龍馬は、一貫性のない人物と見ていたようだ。しかし八郎は「自分には薩摩、長州、土佐といった背景がない。だからいろいろな力を借りなくてはならない」と言わせている。東北人にしては珍しい「弁説爽やか」な倒幕の志士。

 そんな同郷の先輩を、藤沢周平は丹念に足跡を辿って、誤解を解こうとしている。千葉剣術道場で免許皆伝の腕を持つものの、結局は農民出身。そして庄内藩がペリー来航後も眠りについたまま、八郎に続く志士が出てくる様子もない。乱世の中で「孤士」と呼ばれる存在になっていく。ちなみに「義民か駆ける」で描かれた天保義民事件が起きたのが1840年で、清河八郎10歳の時。

 幼少の時家に招いた絵師から、元司の顔には「波瀾が現われている」と言われている。これは三国志における曹操の故事を思い出させる。元々酒屋を継いで働く姿は想像できないところに人から評されて、自分なりに気持ちに決着がついたのだろう。

 江戸で剣術と学問に励み、頭角を現わすことで人脈が広がっていく。外国との交渉で侮りを受ける幕府に対して、倒幕を決意する八郎は、脱藩浪人のほか幕臣山岡鉄舟、その義兄高橋泥舟松岡万(よろず)らと交わって「虎尾の会」を結成した。但し幕府の治安体制は当時有能で、活動前から不穏な思想を感じ取り、首魁の八郎は捕縛対象となる。八郎は素早く察知して、京へ逃亡。

 

  山岡鉄舟ウィキペディア

 

 京から九州へ遊説を続け島津久光が兵を率いて上洛する噂を掴むと、倒幕決行を叫んで浪士を京に呼び寄せるも、久光は当時倒幕を行う気持ちはさらさらない。八郎は薩摩藩邸に実質軟禁状態にされ、八郎が募った浪士が薩摩藩士に惨殺される「寺田屋事件」のきっかけを作ってしまった。

 生き残った八郎は再度江戸に戻り、幕府に京都治安維持の部隊設立を建策して受け入れられる。浪士を募集して京に赴くが、そこで八郎は浪士組を尊皇攘夷の党に鞍替えさせる。倒幕勢力として江戸に戻った浪士組は、倒幕と攘夷はセットと思い込んでいる。一方攘夷はもう時代遅れと感じていた八郎は、浪士組からも孤立して、隊士から斬られてしまい生涯を終える。

 八郎の生涯は終えるが、この「奇術のタネ」は八郎の思いとはかけ離れた成長を見せる。浪士組の一部は京に残り、この勢力が近藤勇らの新撰組となる。そして江戸に戻った浪士組も江戸の治安を任され、(八郎の出身である)庄内藩の預かりとなって新徴組となり、江戸市中を見回りしたことから「おまわりさん」の語源となった。大政奉還後は薩摩藩の挑発に乗って騒ぎを起こして、江戸総攻撃の口実を作り、江戸を退去したあと庄内に逃げ延びて佐幕派として戦い抜く。

 時代は当初尊皇攘夷をエネルギーとしたが、その後攘夷は置き去りにされて、倒幕のエネルギーに収斂されて明治維新が成る。八郎の思い通りの結末だが、まだ時勢は追いついていなかった。「早すぎた志士」として非業の死を遂げるが、それは明治維新に至る時間だけではない。雄弁家として日本でも稀な存在は、例えば板垣退助自由党の行動や、尾崎行雄の弾劾演説などから見ても早かった。

 藤沢周平の全集で同じ巻に収めてある、同じく山形の米沢藩から生れた幕末の志士、雲井龍雄は逆に明治維新前夜にようやく活動を開始したため「遅すぎた」。そのため薩長主導の時流を読み違えて、維新後は政府転覆の罪を着せられて処刑された。雲井も雄弁で、また詩を記すことで周囲を巻込む力があった。

 

  雲井龍雄ウィキペディア

 

 そして庄内からは、戦時中に石原莞爾大川周明が出現する。清河八郎も合わせて3人とも、未来を予見する能力と、それを表現する弁舌に恵まれる。東北地方、そして日本の人々と一線を画す人材が、「突然変異」のように庄内から出現した。

 但しこの才能は、日本では認められない。ともに「出る杭は打たれ」て、晩年は余り恵まれていない。その理由の1つが、本人は自分の考えに誠実であったとしても、周囲は知恵の底が理解できないため、「いいように使われた」思いが残り、反感を買ってしまうこと。余りにも日本人的な「ムラ」社会では、これらの先人たちは排除される運命にあった。

 

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