小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

16 海将 若き日の小西行長 白石 一郎(1997)

【あらすじ】

 羽柴秀吉が大名となり播磨侵攻を命じられる頃、居城長浜城に播磨の豪族、黒田官兵衛織田家に帰順するためにやってくる。その時官兵衛は、堺の豪商で秀吉の兵姑を担っている小西隆佐を紹介された。小西隆佐は秀吉の人物に惚れ込んで商売を賭けていたが、才気利発な親族の弥九郎を養子として、事業を継がせようと思っていた。秀吉もその話を聞いて、弥九郎を播磨攻略には欠かせない備前 (岡山)の宇喜多家に送り込んで誼を通じ、秀吉と宇喜多家の交流を持たせようとした。

 

 宇喜多家の御用商人、魚屋九郎右衛門の養子として入り込んだ弥九郎は宇喜多直家に気に入られ、武家としての禄も食むことになる。策謀によって滅亡された家が多く、梟雄として悪名高い直家だが、直家は戦争によって多く人命を失うより、策略によって多くの命を救うことが良策と信じている。そんな直家に弥九郎も徐々に心服していく。

 

 間もなく宇喜多直家は重病にかかり、まだ8歳の嫡子秀家の将来を憂い、老醜を晒して生涯を終える。その間秀吉が三木城、鳥取城、高松城を次々と攻略する中で、弥九郎は海運から秀吉の兵砧を支えていく。また高松城では船を砦のように浮かべて城を攻め、武士としても秀吉から信頼を受ける。

 

 そこへ本能寺の変が起き、秀吉は「大返し」を行ない、弥九郎は水路からこの強行軍を支えた。これにより秀吉は天下人への道が開け、秀吉に賭けて商売をしてきた義父小西陸佐は堺でも屈指の豪商となる。弥九郎は秀吉政権下で舟奉行として活躍、紀州の雑賀攻めでは大船や大砲を動員して攻撃し、太田城攻略に貢献し、その功により小豆島1万石を与えられて大名となり、小西行長と名乗ることになる。

 

  小西行長宇土市HPより)

 

 元々小西家ではキリシタンが多く、高山右の後押しにより弥一郎も洗礼を受けキリシタンとなる。しかし九州征伐に従った際、長崎ではイエズス会がその財力に物を言わせて、担保とした領地を手に入れて、他の宗教を破却してキリスト教を中心とした街づくりをしている姿を見る。布教は許されるが、「支配」は秀吉の怒りは免れない。秀吉は案の定「バテレン追放令」を発布し、第1弾として高山右近と宣教師の追放を命じる。行長は棄教をすることは拒否する右近らを小豆島に匿い、その後ろめたさから、今までにも増して秀吉のために身命を賭して働く。

 

 その後秀吉から行長へは何も言ってこないことが不気味だったが、秀吉は朝鮮出兵を企てていて、商売で対馬から朝鮮へと渡っている行長を利用しようとしていた。そして秀吉から登城の命が下る。覚悟を決めて拝褐した行長が秀吉から渡されたのは、1万石からいきなり肥後24万石へ転封の朱印状だった

 

 

【感想】

 「戦鬼たちの海 織田水軍の将・九鬼嘉隆」で織田水軍を描いた白石一郎は、本作品で今度は秀吉水軍を描いた。作者があとがきで、史実がはっきりとしている場面は小説家として腕の振るいようがないとして、肥後の大名以降は省き、断片的な記載しか残されていない「若き日の」小西行長を中心に描いている。

 

  *白石一郎が描いた「織田水軍」の物語です。

 

 そのためウィキペディアでの生涯とやや食い違う点もある。陸佐を実父と取るか義父とするか、また武将に仕えたのは秀吉が先か宇喜多直家が先かなど、白石一郎なりに納得できる考えで物語を編み出したもよう。そして 「海」を描くのも「戦鬼たちの海」と共通し、同じように、文中で時々挿入される「舟歌」が心地良い。

 豊臣秀吉バテレン追放令に到る過程は、本作品が一番頭に入りやすい。長崎のイエズス会による実質統治、後の帝国主義政策における「租借地」の実態が描かれて、当時の天下人からは到底受け入れ難いものだと納得させる。またポルトガル商人による日本人奴隷の売買が発覚したことも理由の1つ。そのやりすぎを危惧しながらも、キリシタンの行長は苦悩することになる。但し同じキリシタン蒲生氏郷はともかく、黒田官兵衛が秀吉の目を隠れて高山右近を匿うことに一役買ったとは、思えないが。

 本作品は行長が肥後24万石を受けるところで終わるが、小西行長のその後を駆け足で記す。猛将佐々成政が統治に失敗した肥後は、長年国主が不在で国人が割拠し、天草はキリシタン門徒多数を占める難国だが、同じく肥後領主となった加藤清と共に一揆を平らげていく。しかし加藤清正は以前から行長を「魚屋の倅」と蔑んでいてそりが合わず、確執は徐々に拡大する。

 その後朝鮮出兵の先鋒を2人に仰せつかるが、戦線を拡大したくない行長や石田三成は、戦争を続けようとする秀吉の意向を第1と考える清正と対立する。行長と三成は清正の動きを抑えるために秀吉に讒言し、謹慎処分に持ち込んだこともあり、関ヶ原に至る大きな溝を作ってしまう。行長らの講和エ作は失敗し再度出兵が始まるが、戦況は最初から好転しないまま秀吉が薨去して、朝鮮出兵終戦となる。

 関ケ原の戦いでは、石田三成宇喜多秀家との誼に加え、加藤清正が東軍についたことから西軍に与すが、朝鮮出兵の痛手が大きく、力を出し切れなかつた。敗れるも行長はキリシタンの教えから自害はせず、六条河原において石田三成安国寺恵瓊と共に斬首された

 なお行長はマカオなどに転売された日本人の救済に努めている。また堺や領内に病院を建設し,ハンセン病患者を宗教に関係なく手厚く遇し、また捨て子の救済として孤児院を建設している。

 

小西行長が仕えた宇喜多直家。「梟雄」とはまた別の角度から光を当てています。

 

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