小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

1 樓岸夢一定(ろうのきしゆめいちじょう) 蜂須賀小六 佐藤 雅美 (1998)

ここからは、豊臣秀吉にまつわる人物や戦いの20選になります。

 

【あらすじ】

 尾張国の西で美濃との国境にある、木曽川の水運を生業とした川筋衆として勢力を張る蜂須賀党は、浪人時代に流れてきた後の齋藤道三を世話した関係で、美濃を中心とした防諜活動などに務めていた。そんな時に道三の娘が、尾張織田家の嫡男信長に嫁入りする話が持ち上がる。蜂須賀の嫡子小六と弟分の前野小右衛門(長康)は、信長は近所の生駒屋敷にいる未亡人の吉乃の元に通っていることを知っていた。

 

 道三が子の義龍と対立し、織田家も信長の父信秀が急死して、蜂須賀党も改めて「主取り」を考えなくてはならなくなった。小六は、幼い時から知っている織田信長の器量は認めるが、「鬼柴田」を一喝して退散させる威厳と酷薄そうな性格を見ると、仕え難いと感じていた。信長は見込み通りの活躍で尾張を統一していくが、小六は決めきれない。

 

 東海の覇王、今川義元が上洛の途につき、途中の織田信長は窮地に立たされる。信長のことが気になる小六は、得意の防諜で今川義元の動静を逐一信長に報告し、桶狭間の戦いで勝利に導いた。それでも信長から恩賞はなく、小六は小六で信長に物乞いする気持ちにはなれない。

 

 美濃攻略で重要な鍵を握る蜂須賀党に対して、生駒屋敷に出入りしていた「木藤」こと木下藤吉郎(秀吉)は何度も押しかけて味方になるように勧めるが、小六は素直になれない。そんな小六を信長は「拗ね者」と呼んで扱いを秀吉に任せた。そこで小六は、信長でなく秀吉に仕えることで、折り合いをつける。

 

   蜂須賀正勝江南市HPより)

 

 美濃攻略のため、小六は藤吉郎の調略活動に「本業」の防諜などで力を貸し、徐々に成果を上げていく。そして墨俣築城も、秀吉のアイディアを小六が「プロの目」で計画し、専門家の部下を使って実現する。こうして織田家長年の悲願だった美濃攻略は成功し、藤吉郎は墨俣城主に出世した。

 

 新たに秀吉の配下となった軍師竹中半兵衛と連携して、秀吉の両腕としてその後の快進撃を支えていく。金ケ崎の退き戦では秀吉は小六らに「死んでくれるか」と頼んで、殿(しんがり)を引き受け一丸となって命を長らえた。大坂天王寺の戦いでは小六の活躍を「樓岸一番の槍」と称えられ、信長から感状を受ける。そして播州から鳥取城、高松城攻めと、秀吉幕下で槍仕事だけでなく敵への防諜、調略活動などにも携わり、秀吉の右腕として活躍する。

 

 本能寺の変の後、中国大返しから山崎の戦いと活躍し、秀吉の天下取りを支えるも、小牧長久手の戦いから病が進行し、蜂須賀家の差配は子の家政に譲るようになっていた。そして秀吉も変わった。天下人になると信長と同様に、傲岸不遜の性格を表に出してきた。小六(正勝)は秀吉からは阿波徳島一国を受けるが、将来を考えて子の家政に拝領されることを望み、そのまま亡くなる。

 

【感想】

 「太閤記」では野盗として描かれ、矢作川の橋で寝ている行商人の日吉丸と盗賊の頭領である小六が出会うシーンは、昔は錦絵にも描かれて有名だった。しかし明治の蜂須賀「侯爵家」は先祖が夜盗であることを嫌がり、当時矢作川に橋はなく、この話は作り物と主張する。そして昭和になって発見された「武功夜話」では、秀吉の父は村長で、元々蜂須賀党に仕えていたと書かれている。

 

 

 *美談武者八景 矢引の落雁より

 そんな新しい視点から見た蜂須賀小六(正勝)だが、信長に対して器量は認め、危機になると心配になるが、家臣になることはできない「ツンデレ」系で描かれているのが可笑しい。結局秀吉に仕えた後も、所々で信長に褒められるとそれはそれで嬉しい反面、墨俣の一夜城の前に、簡単に美濃攻略が成ると自分たちの出番がなくなるからと、信長が一度負けて安堵する複雑な心境を描いている。

 そんな中、作者佐藤雅美竹中半兵衛を通して、自分なりの考えを記しているところに見応えがある。姉川の戦いで、織田軍12段構えの大軍の中で、周りが横1陣に対して、秀吉軍は円陣に組んで混乱しないようにする武田信玄の東征も、信長は浅井朝倉との対決を回避して兵を返して、信玄を自分の領地に引き入れ、包囲して戦う算段をしていた。しかし信玄は、家康の三方ヶ原における「軽慮」に加え、浅井朝倉勢と挟み撃ちにできないと判断して、信長との直接対決を回避した、と見ている。

 この竹中半兵衛蜂須賀小六は、秀吉の両腕と呼ぶに相応しい名コンビで、創業時を支えた実力者であり、実務者と言える。戦略を練る「秘書課長」の半兵衛に対して、汚れ役だけでなく、外交も秀吉の意を汲んだ上に適宜判断ができて結果を残す小六は、「総務課長」として、汚れ役を超えた存在感がある。

 そのため秀吉政権の石田三成、家康政権の本多正信らとは違った扱いになり、誰の文句もなく阿波一国の太守となった。しかし小六は信長の時代から、宮仕えの厳しさは察知していた。

 

 

 *「信長の棺」では、秀吉の出生の秘密を知っているとされた前野長康。小六と共に秀吉を支え、そして散りました(ウィキペディアより)

 

 病は重くなり、幼馴染みの前野長康(小右衛門)に「平時のご奉公は大敵に向かうより難し」と言い残して亡くなる。その前野長康は秀吉に隠居を申出るが、秀次の後見を求めて許されず、その後言い訳も聞かずに秀次に追うように切腹を求められた。

 黒田如水と同じく、先が見えすぎた者の悲劇だったのだろうか。

 

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