小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

14 武王の門(懐良親王) 北方 謙三 (1989)

【あらすじ】

 懐良親王後醍醐天皇の皇子の1人で、南朝の勢威を九州に広める目的で征西将軍宮に就く。但し既に後醍醐天皇新田義貞楠木正成もこの世にはいない時代。

 

 乱世の中、九州の豪族たちが求めているのは本領安堵新恩給与を差配できる武家の棟梁で、宮からの令旨1枚で動く者はいない。宮はまだ14歳。但し懐良親王が醸し出す雰囲気は20年前に亡くなった、後醍醐天皇の嫡子で武勇に優れ、足利尊氏も恐れた護良親王を彼佛とさせた。

 

 懐良親王が支援を期待した菊池氏は、支配する肥後が隣国から攻められて身動きが取れない。やむを得ず懐良親王は薩摩から戦闘を開始し、難敵の島津貞久を打ち破り九州でその名を高めた。足利尊氏は一門の畠山直顕を派遣して島津軍を擁護するが、懐良親王はそれでも勝ち続ける。尊氏が恐れた菊池武光は「菊池千本槍」を筆頭に専門化された戦闘部隊を組織し、懐良親王と力を携えて来るべき戦闘のために力を蓄えていた。

 

 そんな時、父尊氏と対立している足利直冬が肥後まで逃げてきた。直冬はかつての父尊氏のように、九州を京に攻め上がる踏み台として、実父尊氏を討って、養父直義と共に幕府を牛耳ろうとしていた。そんな直冬に九州の豪族たちは期待し、わずか20日足らずで直冬は九州最大の軍事力の頂点に立った。

 

 直冬は太宰府を支配する少弐頼尚と結びつき、九州探題一色範氏と対峙した。ここで菊池武光は策略を巡らす。一色と少弐の本隊を戦わせるために菊池は一旦戦に負け、その後の戦いで一色軍を撃破することで菊池は大きな勢力を持つに至る。懐良親王と菊池に軽くあしらわれた少弐頼尚は、敵の力を知略を知って戦慄する。

 

  懐良親王ウィキペディアより)

 

 懐良親王の勢いは猶予ならず、幕府はついに重臣今川了俊九州探題に派遣する。了俊が情報を集めると、菊池武光はもとより懐良親王は非凡な武将であることを認めざるを得ない。そこで了俊は正面からの戦いを避け、九州は懐良親王を中心とする征西府国として治め、あとを幕府国ととらえようとする。しかし菊池軍は総大将である征西将軍宮・懐良親王を擁して、太宰府を向かって進軍を開始し正面からの戦いを挑む。

 

 征西軍は2万の軍勢を率いて陣形を自在に操って行軍する。対する今川了俊は5万の軍勢を5段構えに敷き、背後には2万の兵を置く重厚な陣形で迎え撃つ。その軍勢に「菊池千本槍」が突っ込んで、4段目まで破りあと1歩のところで菊池武光は急死する。後を継いだ懐良親王は本陣に突撃する。今川了俊は勢いに飲まれて自分の首が飛ぶことを覚悟した。しかし嵐のような攻撃は過ぎ去り、懐良親王軍は退却する。

 

 闘いは終った。それは懐良親王が九州で疾走した11年の月日が終ったことを意味した。

 

 

 菊池武光(刀剣ワールドHPより)

 

【感想】

 ハードボイルド作家の北方謙三が、初めて足を踏み入れた歴史小説。そして次の年に上梓した「破軍の星」の主人公北畠顕家と同じく、本作品の主人公の懐良親王を若くして刀身のようにまっすぐに光り輝く、魅力溢れる人物として描いている

 幼年期を寺院で過ごし、成長した時は既に父後醍醐天皇崩御している。遠方に1人派遣され、名前だけで平定を求められる過酷な運命に対して、正面から立ち向かっていく懐良親王。その姿を本作品では、後醍醐天皇の長男で倒幕に尽力しながらも、倒幕が成った後は帝の側女阿野簾子の吹聴によって鎌倉に遠ざけられ、中先代の乱の混乱に乗じて足利直義によって株殺された大塔宮護良親王を投影させでいる。

 歴史作家の安部龍太郎は、大塔宮護良親王を父に疎まれて辺境の地に派遣されて戦いに明け暮れた日本武尊と重ねている。そして九州に派遣されて菊池一族と邂逅する懐良親王の姿は、まさしく日本武尊を思い描く。ちなみにその時は既に崩御している父、後醍醐天皇は30人を超える女性を妻とし、わかっているだけで36人もの子供をもうけているという。

 

nmukkun.hatenablog.com

 

 実質ゼロの勢力から九州平定を始めた懐良親王だが、その人望と真っ直ぐな性根で周囲の人物を巻き込んでいく。本作品では懐良親王は九州の将来を南朝の勢威を広めることではなく、民のために平定する考えに至る姿を描いている。同志とも言える菊地武光はもう1人の主人公と言ってもいい存在で、戦略を司る懐良親王に対して戦術を担う菊池武光という役割分担を、最後の最後まで武光が尽くす形で見事に描かれる。そして菊池武光がその悲壮な最期を迎える時が、懐良親王が九州の地での活躍を終える時でもあった。

 また北畠顕家にも味方にした山の民の存在は興味深い(描いたのはこちらが先だが)。領地を持たないが独立した勢力を保持している山の民の生き方は海の民とともに、九州を独立勢カとして本州と分ける思想に繋がり、領地と武士を切り離すという考えに行き着く。懐良親王は九州には10万の精兵がいれば十分で、守護も国司もいないと考えた。

 そのためには交易によって富を稼ぎ、兵は領地ではなく銭によって手当てをする思想にたどり着く。それは250年後に登場する織田信長の考えに等しく、近世への扉を開く思想でもある。但し高麗や明と交易することで明の太祖(朱元障)から倭冠退治を迫られると「日本国王」として応じ、後々の対明貿易で日本は苦労をすることになる。

 史実では今川了俊が九州を平定する。そして懐良親王は征西将軍の職を甥の良成親王後村上天皇皇子)に譲り、九州の地・筑後夫部において病で薨去したと伝えられるが、定かではない。

 

  *定かではないその後を描いた続篇は、足利義満の時代を舞台としています(Amazon