小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

15 獅子の座―足利義満伝 平岩 弓枝(2000)

【あらすじ】

 初代将軍足利尊氏が死んで100日後に生まれた孫の春王(のちの義満)。足利家の重臣である細川頼之の妻玉子は、我が子が亡くなり失意の中、春王の乳母として愛情を注いで育てる。そして春王もその愛情に応えつつ、生まれながらの将軍として気宇壮大な性格を持って成長する。

 

  10歳で父が死に3代将軍となった義満は、玉子の夫細川頼之管領として、そして「師父」として傍におき、政務を任せっきりとした。その間摂関家の氏の長者、二条良基から朝廷の有職故実を学び、良基が懇意にしていた能楽の美少年、世阿弥に魅せられて男色の虜となる。後に公卿の日野業子を正妻とするが、後円融天皇の手が付いた業子に愛情が湧かず、生まれた子も業子には内密に死産としてしまう。

 

 政争の中で師父と仰ぐ細川頼之は、政敵から排除されて四国探題として都落ちし、義満を失望させる。そんな中でも義満は「六分一殿」と呼ばれた大勢力の山名氏清や土岐家の争いに介入して将軍の権威を高めていった。

 

 分断の象徴であった南朝も次第に勢力が衰退していった。将軍の権威が高まることで南朝もついに合一に従い南北朝時代は幕を閉じる。但し和解の約束であった両統迭立を義満は「堂々と」反故にして、後顧の憂いを絶った。

 

 また二条良基から学んだ貴族社会の遊泳術によって、徐々に朝廷を支配していく。元々北朝の皇統は祖父尊氏の力によって復活したもののため、幕府側は皇室への敬意は乏しかった。交易による財カと武力で朝廷を支配し、かつて義満を冷笑した後円融上皇を力で公卿たちから疎外させ、更に妃を寝取るなどをして上皇の面目を完全に潰し、朝廷で義満に逆らえる者はいなくなっていた。

  足利義満ウィキペディアより)

 

 そして義満の心の底に皇位纂奪の野望や宿る。長男義持を将軍家の後継とする一方、偏愛する次男義嗣を皇統に組み込ませようと企む。

 

  それを唯一人、義満に宮廷遊泳術を教えた二条良基は感づいた。摂関家の氏の長者として、皇位纂奪は身を挺しても阻止しなければならない。そのため頭脳明晰で果断な性格も有する三宝満済に、天皇家が義満に簒奪されるようならば命を絶つように伝え、短刀を渡して世を去る。使命を託された満済だが、その任と失敗が許されない使命感から、義満に対時するとためらいが生じて実行ができない。

 

 それを知ってか知らずか、朝廷内でも同じ決断をした者がいた。天皇の祖母で、義満に屈辱を与えられた後円融上皇の生母崇賢門院。皇室に伝わる秘伝の薬で、義満に対して眉一つ動かさず冷徹に毒を盛った。

 

  

後円融天皇の孫は「あの」一休さん。母の身分が低かったため出家して皇位を弟に譲ったとされていますが、義満の血統(?)を回避したのかのように、義満の死後称光天皇から後花園天皇にかなり不自然な皇位の継承がなされました。

 

【感想】

 混迷した歴史の中では、権力者の代替わりや主要人物の性格などが重なり合い「エアポケット」が生じ、その中から突然1人の「怪物」が生まれる時がある。天武系の皇統から外れて帝位を就く望みなどなかった桓武天皇摂関政治が全盛の中で、父後三条天皇院政を確立する前に亡くなって残された白河法皇。一時は弟に先に皇位を継がれて、天皇になる可能性が断たれたかに思えた後白河法皇など。

 足利義満はまだ混沌とした南北朝時代に生まれる。英雄足利尊氏は義満が生まれる前に戦乱の中で、父義詮は戦乱を抑える力がないまま失意の中で亡くなる。10歳で将軍職に就いた義満は、本来ならば後の足利将軍のように、混乱の中に埋もれても不思議ではなかった。父の2代将軍議詮は北朝の3上皇南朝に拉致される失態を犯し、また将軍家の家臣団も佐々木遣誉、赤松円心などのバサラ大名や細川、斯波、山名、今川、土岐などによる争いが絶えず、足利将軍家の権威もなかった。しかし徐々に怪物に「孵化」する。

 本作品で平岩弓杖は義満の性格形成について、後円融天皇が手をつけた女御を娶ったことで、天皇が冷笑したことを義満は敏感に感じ取り、それがトラウマとなった様子を印象深く描かれている。深く愛した乳母の玉子や、妖艶な美少年である世阿弥に対する愛情も合わせて、複雑な性格を形成していく。

  *後円融上皇ウィキペディアより)

 

 その後の後円融上皇に対する仕打ちは激しい。上皇へ参内する公卿に圧力をかけて参内を止めさせて立場を失わせる。側室に限らず正妻ともこれ見よがしに密通を行なうも、上皇は怒りのやり場を権力者の義満に向けることはできず、正妻に「DV」を行い瀕死の重傷を負わせる。その騒ぎは市中の噂となり、上皇はノイローゼに陥って皇室の権威を失墜させていく。白河から後鳥羽時代におきた乱脈ともいえる皇室の争いと同様に、両統迭立という「自業自得」とも言える中で起きたタイミングで、義満は「皇位簒奪」を狙ったとされる。   

 慈円の「愚管抄」に書かれた「皇位は100代で途絶える」説を世間に流布させ、ちょうど南朝天皇が100代になるのを機に、自らもしくは子が皇位に就くことを目指して手筈を整えていく。

 対して作者平岩弓枝は、歴史上の事実である「皇位を纂奪できなかった」役割を、黒衣の宰相として活躍した三宝満済に与えた。それでも心中のためらいを払いきれないために「実行犯」を現天皇の祖母として、そして虐げられて傷ついた後円融上皇の母崇賢門院(広橋仲子)とし、権力闘争ではなく子や孫への「愛情」を最後の「武器」とした。

   歴史上の 「犯人」は判明としない。しかしこれだけ説得力のある「回答」はなかなか存在しない。

   崇賢門院は当時としては珍しく、92歳の長命を全うしたという。

 

nmukkun.hatenablog.com

足利義満による皇位簒奪の手順は、蘇我入鹿を彷彿とさせます。