小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

12 破軍の星(北畠顕家) 北方 謙三 (1990)

【あらすじ】

 後醍醐天皇の親任が厚い北畠親房の息子、北畠顕家鎌倉幕府滅亡後、16歳で陸奥守に任ぜられ、多数の幕府残党が逃げ込んで数々の蜂起が起こる東北一帯を鎮撫する大役を仰せつかる。そしてその大役を学問と修練、そして自らの将器を持って、孫子の旗を掲げた巧みな指揮と判断でこなす。

 

 若き顕家が見せる見事な軍隊の統率。これをじっと見ている集団があった。山の民と呼ばれる安家利通の一族。その発祥は謎に包まれ、土地も持たずに山を往来する集団だが、軍として統率されて顕家もその存在が気になった。軍事行軍で敢えて山中を通行する顕家は、期待通りに安家一族と遭遇する。そこで安家一族に率直に語る顕家の現在の帝や政治に対する認識と、「清冽なもの」に近づこうとする今後への希望。そして「夢は見るものではなく追うものだ」と語る顕家に山の民の一族は心を動かされ、運命を共にしようと決断する。

 

 顕家の陸奥支配は進むが、建武の新政において後醍醐天皇と足利兄弟の溝は広がっていく。鎌倉で勝手に振る舞う尊氏に対し、朝廷は新田義貞を総大将とする軍勢を鎌倉へと派遣したが返り討ちにされる。勢いに乗って尊氏は義貞を追撃し、京へ迫ろうとしていた。顕家はその報を聞き、義良親王を奉じ尊氏軍を追って上京を開始する。その兵数は5万。

 

 途中鎌倉で尊氏の長男、義詮を破り鎌倉も占領して京への驀進を続ける。スピードを優先するために遅れる兵を見向きもせず、義良親王が体調不良となって父親房から休養を求められても断じて従わず、戦いの厳しさを知らしめて、固い決意を持って行軍を続ける。

 

   *美男子と言われた北畠顕家ウィキペディアより)

 

 足利側も信頼の置ける斯波家長を奥州の配置し、顕家への抑えを万全としたにも関わらず、尊氏・直義兄弟が驚愕するほどのスピードで中原に現われた顕家率いる奥州軍。琵琶湖畔の坂本で新田義貞楠木正成と合流し足利軍を次々と破り、京から駆逐させる。

 

 一旦奥州に戻った顕家だが、足利尊氏が半年間もなくで再度大軍を率いて上洛し、顕家は再度京への進軍を迫られる。奥州を鎮定して鎌倉に進撃し斯波家長を葬り、いよいよ京へ最進撃を開始する。10万を越える大軍で怒濤の攻めを行ない美濃で足利軍を一蹴するも、兵站が届かず飢餓が襲い、勢いが衰えてくる。

 

 転戦を重ねていく内に兵力は減じていき、奥州から顕家に奥州から付き従った兵は80騎になってしまった。主上後醍醐天皇にあてた激烈な「諫奏文」をしたためたあと前方の8万の軍勢に向かい、本陣の向こうにある「夢」を目指して21歳の若者は最後の突撃を敢行する。

 

 

【感想】

 北方太平記。個人的には悪党として有名な播磨の赤松円心を描いた「悪党の裔」や婆娑羅大名として有名な近江を支配する佐々木道誉の「道誉なり」も捨てがたいが、南朝側で北と南を舞台とした2人を取り上げた方が「北方太平記」の特徴が良く出ていると考えた。ちなみに発刊の順序は南を舞台とした「武王の門」が先だが、時代背景からこちらを先に取り上げる。

*こちらも捨てがたい、北朝側の2人の「漢」を描いた北方太平記2作品。

 

 北畠顕家ほど北方謙三が取り上げるに相応しい人物はいないように思える。若くして自らの鍛錬を怠らない、けがれなき気性。現状に対して満足はしないが、自分の進む道を信じて真っ直ぐに生き、その姿を美しい輝きを見せる刀身のように描いている。顕家と山の民が交わす会話は、「男が男に惚れ北方謙三のライフワークのようなテーマを見事に映し出した場面となっている。

 そして作品の中で、時々足利直義主観の場面が入り、直義から見た顕家の恐ろしさを描いている。直義という「実務家」から見て、若いにも関わらず捉えようのない顕家という人物に対しての恐れ。そして兄尊氏に抱くこれまた異なる思い。義に欠けている大局観を以て手を尽くす尊氏だが、手を打ったあとは、覚悟を決めて戦うのみという開き直りは顕家とは違う「大きさ」を感じ、そして直義との「差」を表現している。尊氏は斯波家長という部下に対して絶大なる信頼を寄せにが、その家長でも敵わない様子で北畠顕家という敵の大きさを感じさせている。そして家長も北畠顕家に対して様々な手を尽くして対峙するも全く歯が立たず、最後にはまるで暴風になぎ倒されるよう敗れている。

 最初に奥州から上洛した際の状況。「顕家の軍勢はこのとき、1日に平均40km弱も移動して600kmに及ぶ長距離を僅か半月で駆けており、その後も渡渉などが続く中1日30kmのペースを維持している。これは後の羽柴秀吉中国大返しを遥かに越える日本屈指の強行軍である」(ウィキペディアより)。

 これだけの強行軍を行なう将としての器。物語の最初から軍の訓練について描かれて、決して「絵空事」ではないものと抑えているが、最初から最後まで北畠顕家という若者の「吸引力」を描きたいがために描かれた作品に思える

 そして死の直前に記して後醍醐天皇へ直接渡したとされる「諫奏文」(本作品では最後の戦いに向かう前に部下に託している)。質素倹約、公平人事、行幸や酒宴の中止、側近による恣意的な口出しの廃止など、「独裁者」後醍醐天皇に対してかなり思い切ったことを言い切っている。これは「二条河原の落書」と並び建武の新政への批判的文書とされるが、私には関ヶ原の戦いの前に上杉家家老、直江兼続徳川家康に対して突き出した挑戦状とも言える「直江状」のような意気込みを感じる。

 享年21歳。最後の最後まで、「男が男に惚れる」人物だった。

 

  

*そんな北畠顕家大河ドラマ太平記」で演じたのは、当時17歳の後藤久美子でした・・・・