小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

7 夢のなかぞら(父藤原定家と後鳥羽院) 大垣 さなゑ (2007)

【あらすじ】

 「神器なき即位」。安徳天皇が神器を携えて西国に逃れたため、三種の神器がないまま即位した後鳥羽天皇。これはそのまま後鳥羽帝の心に残る「トゲ」となって生涯に影を落とす。そんな後鳥羽帝は、帝でありながら自らも刀鍛冶を行なうほどの類いまれな才能も有していた。

 

 「日本一の大天狗」と呼ばれた祖父後白河院。今様に狂い帝の器ではないと周囲から見られながらも、即位するや権力を縦横無尽に操って、勝者が入れ替わる源平の争乱を渡り歩く。その姿を学んだ後鳥羽帝は、退位後も治天の君として朝廷、そして自らの権威を高めるにはそうすればよいかを考え続けた。

 

 後鳥羽院の卓越した才能は和歌にも向かった。当時の和歌は「世を治め民を和らぐる道」とされ、和歌の力は平和をもたらすと信じられていた。後鳥羽院は習作を重ね、遂には当代随一の歌人と呼ばれるまでになる。

 

 対して歌の道を究めんとする「歌聖」藤原定家とその一族。父藤原俊成は和歌の道で崇徳院、そして後白河院の知遇を得て、勅撰和歌集である「千載和歌集」の編者に命じられて、和歌の道で名を高める。その技法は古典である古今和歌集伊勢物語源氏物語などを理解して更なる広がりを表現する「本歌取り」など幽玄や艶などを確立するものであり、後世に大きな影響を与えた。

 

 俊成の子である藤原定家は、父から受け継いだ感覚を研ぎ澄ませて、その才能と妥協をしない不断の努力で「歌聖」と崇められる。和歌の道に目覚めた後鳥羽院も、一時は定家を和歌の師匠としての扱いを見せて、勅撰和歌集新古今和歌集」の編者にも指定する。

 

   後鳥羽天皇ウィキペディアより)

 

 ともに剛直で妥協を知らぬ性格を有する2人の間に生じた小さな綻びは、次第に大きくなり修復が効かなくなる。次第に新古今和歌集の編纂に口を出してくる後鳥羽院に対し、自らの考えを曲げない編者の定家。そして母の忌日に行なわれた歌会に強引に呼び出された定家は、その不満を込めた歌を詠んで後鳥羽院の逆鱗に触れて、院から遠ざけられる。

 

 その年に承久の乱が起きる。定家は院と一定の距離をおいていたため、結果乱の後は政界に返り咲くことになる。定家の子藤原為家は、後鳥羽院と共に乱の首謀者となった順徳院と交流が深く、乱のあと佐渡島に配流となったときに同行を求められるも固辞してしまう。

 

 為家は父定家の背中を追って、京の地に残り歌道を極めようとする。順徳院への後ろめたさを残したまま、祖父俊成から続いた一族の皇室との繋がりを、和歌を通して記していく。

 

【感想】

 崇徳院から後鳥羽院まで「怨霊の系譜」ともいうべき皇室に対して「歌聖」藤原定家を中心とする三代の関わり。この流れを歌をちりばめその意味を紐解いて描いていく、非常に凝った構成となっている。私には和歌の解釈が行き届かず、本作品の「趣向」の半分も読み込めなかったと反省するが、非常に興味深く読んだ。

 藤原俊成は偉大な道長の血を汲んでいるが、傍流のため歌道で認められる道を選んだ。出世のきっかけとなった崇徳院保元の乱で敗れて讃岐に配流となり、皇室を呪って「憤死」する。

 後白河院の孫にあたる後鳥羽院。自我が強く才器があるために、自らの帝位が「神器なき即位」と言われ周囲から蔑んで見られることに耐えられない。朝廷ひいては自身の権威を高めることに執着し、幕府に対しては強行策を持って望んだ。北条義時に朝敵の院宣を下すことで幕府の分裂を図り、祖父後白河院のように政敵を操ろうとする。しかし幕府は結束して後鳥羽院に対峙し承久の乱で完敗する。崇徳院が呪ったとおり、鎌倉幕府より隠岐島へ配流されてしまう。

 後鳥羽院の長男である土御門院は温和な性格で、そのために後鳥羽院が不満に持ち弟の順徳帝に譲位させたほどだが、父弟に「付き合って」土佐に配流を受け、配流後はのんびりと京を懐かしむ歌を詠んだ。対して倒幕派で激しい性格を持つ弟の順徳院は、配流されても決して「泣き言」の歌は詠まなかった。

 そして後鳥羽院隠岐に流されてなお「我こそは 新じま守よ 沖の海の あらき浪かぜ 心してふけ」と詠むその心意気には圧倒される。そして隠岐でもいくつもの和歌を詠んで歌集を作る。

   *藤原定家ウィキペディアより)

 

 藤原定家は、最後は後鳥羽院と距離を置くことになった。勅撰和歌集では幕府に遠慮して後鳥羽院と順徳院の和歌は選出しなかったが、私的な歌集「百人一首」では、スタートを平安から継承される皇統の祖、天智天皇。2首目をその娘である持統天皇とし、99首を後鳥羽院、100首を順徳院とする趣向を用いて、内面の思いを吐露する。

 

天智天皇 「秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ

   厳しい労働の後に訪れる収穫の喜びを描いた和歌で、天皇が執り行う新嘗祭にも通じている。

持統天皇 「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

   初夏の爽やかな風を躰全体で感じる和歌。そして貴族たちの心の故郷、飛鳥の風景につながる。

 

99 後鳥羽院 「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は

   配流される前の歌だが、既に自らの思いに任せぬ散り乱れる心境を詠んでいる。

100 順徳院  「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

   古びて荒れた現在の宮殿。しかしその建物は、昔の栄華を偲ばれる。

 

 定家が選んだ後鳥羽院、順徳院の和歌は、天智・持統帝に比べ余りにも淋しい。「言霊」を操る歌の名手たちでも「世を治め民を和らぐる」には至らなかったことを歎くようでもある。

 白河法皇崩御してから承久の乱までおよそ100年。子孫に残した「業」は余りにも大きい。

 

    

 *白河法皇から後鳥羽上皇へと続く皇統の系譜(山川出版社「詳説日本史」より)