小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

1 鎮西八郎為朝 津本 陽 (1989)

【あらすじ】

 身長は2mを越え筋肉隆々。左手が右手よりも長いため、人よりも長い矢を扱うことができる。2人がかりで作る弓でも大抵の人は扱えない中、8人張りの強弓を駆使して周囲を圧倒する源為朝。氏の長者である父為義の八男として生まれるが、子供の時から恐れ知らず。時の権力者、鳥羽上皇の面前でも大言壮語を吐くと、打ち込ませた矢を素手でつかみ、その武勇を開陳する。

 

 父為義は為朝に危惧を抱き、一旦京から遠ざけようと、源氏の勢名を九州で広めるように命じる。大宰府に乗り込んだ為朝は、ここでも周囲を圧倒する。人を襲う大蛇の噂を聞くとこれを見事に退治。その実力に周囲はひれ伏して、瞬く間に為朝の名は九州に広まる。

 

 九州でも乱暴が止らない為朝は、朝廷から呼出を受ける。威嚇しないように少数の軍勢で上洛したが、鳥羽上皇亡き後、長男崇徳上皇と弟の後白河天皇が対立していて、まさに戦の前夜だった。父に従い崇徳上皇側についた為朝は夜襲を提言するが、左大臣藤原頼長は率いた軍勢が少数で期待はずれだったこともあり、意見を退ける。対して後白河天皇側は、兄の源義朝が同じく夜襲を進言すると、学者で名高い藤原信西入道が同意した。

 

 崇徳上皇側が夜襲を受けて混乱する中、為朝は正面で待ち構え、襲ってくる平清盛軍に対し強弓を用いて1矢で2人を突き通すなどの活躍を見せて退かせる。代わって攻める兄源義朝軍にも人間離れした活躍で立ち向かうが、兵に利あらず、崇徳上皇側は敗北してしまう。

 

  

 *源「鎮西八郎」為朝(ウィキペディアより)

 

 落ち延びた為朝は病にもかかり朝廷に捕らえられる。父為義や兄たちも斬首となったが、為朝はその武勇を惜しまれ、腱の筋を切られて強弓を仕えないようにした上で、伊豆大島流罪となった。病が癒え腱の筋も回復した為朝は、怪力が回復すると瞬く間に悪代官をやっつけて大島を占拠してしまう。島民は為朝に心服するとともに、軍勢としても鍛えられた。そして退治に来た朝廷軍をやっつけて、その勢いで京に攻め入ろうとするが、船が嵐に巻き込まれて琉球へと流されてしまう。

 

 琉球に流れ着いた為朝は琉球王の天孫王を支えるために、政を牛耳る南風原按司が支配する首里城を攻め落として、琉球王国を平定させる。そして1年が過ぎ、妻と息子に恵まれて満ち足りた生活をしていた。

 

 だが為朝に安息の日は似合わない。思いは父や兄たちが斬首され無念の思いを遂げた京に飛び、憎っくき信西入道を倒すため、再び京に攻め入ろうと決意する。

 

【感想】

 滝沢馬琴が描いた源為朝を主人公とした代表作「椿説(ちんせつ)弓張月」。現代の日本では人形劇や映画などで「南総里見八犬伝」の方が有名だが、当時は主人公為朝の「悲劇の英雄」ぶりと、史実に忠実に描いた前半部分に対して琉球王国建国にまつわる伝承に繋げたスケールの大きさで、弓張月の方が好評を博したという。そして私は子供の頃ジュブナイル版で弓張月を読んで、まるで少年ジャンプに出てくる主人公のような源為朝の活躍に心奪われた。史実は伊豆大島流罪となってから朝廷軍に攻め入れられて、切腹して命を絶ったとされている。

 本作品はその「椿説弓張月」を典拠としている。そのためか源為朝は、身長は2mを越え、8人張りの弓を使うとして「盛っている」印象がある(ジュブナイル版は「5人張り」の記憶だった)。とは言え前半の物語は 「保元物語」に沿って描いていることは変わらず、その辺は史実に近い。

 但し子供の頃読んだときは、保元の乱の「背景」は全くわからず、なぜ弟(後白河天皇)が兄(崇徳上皇)に従わないのだろうかと、ひじょ~に単純な疑問を抱いたもの。

  

 *保元の乱を巡る崇徳上皇後白河法皇の関係図(日本経済新聞社より)

 

 保元の乱は「治天の君鳥羽上皇の長男崇徳上皇と、四男の後白河天皇が対立していたことから生じている。先の取り上げた「天上の紅蓮」で書かれたように、祖父白河法皇にいいようにされた鳥羽上皇の恨みは、我が子として押しつけられた「祖父の子」崇徳上皇に向けられた。

 鳥羽上皇は皇統を、自分の血脈ではない崇徳上皇の子に継がせることは断固として拒否する。策略を巡らせてまで五男の近衛天皇に(次男、三男は躰が不自由だった)、そして近衛天皇が早逝すると、璋子の子を理由に一度は天皇の座を回避させた「兄」後白河天皇を即位させる。「弟から兄へ」と変則的な継承をしてまでも、自分の血の繋がっていない「叔父子」崇徳上皇の子に皇位を継がせなかった。対して崇徳上皇は、騙して皇位を取り上げた鳥羽上皇への恨みが募る。恨みが恨みを呼んで、鳥羽上皇崩御する前から対立のタネは蒔かれていた。

 そこに武土が介入する。前九年の役後三年の役における伝説的な八幡太郎義家の活躍で源氏は武家の棟梁の立場になったが、義家の子源義親が反乱を起こして勢威が衰えた源氏を継いだ源頼義と義朝親子。対して「独裁者」白河法皇に取り入って昇進した平忠盛の子で、白河法皇の「落胤」と噂される平清盛。皇室だけでなく、摂関家そして「源平」が、親子兄弟、親戚や「落胤」が分かれて戦い、まるで応仁の乱のような様相となている。

 結局この戦いで敗れた崇徳上皇は讃岐へ流罪となる。仏教に傾倒して経典を写本し京への奉納を求めたが、後白河院が写本に「呪詛」が込められていると疑い拒否したことに怒り「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と呪って「憤死」する。その恨みは朝廷に代わって「民」の武家が政権を樹立し、そして「皇」後鳥羽上皇が「民」である武土の手で流罪になることで成就し、明治維新で「王政復古」となるまで日本一の怨霊として認められる。

 

 武士が政界の中央に踊り出るきっかけとなった保元の乱。その中で鮮やかな活躍を誇った源為朝。まだ武家政権ができる前の話だが、この「武勇伝」は武土の時代の幕開けに相応しい存在感を表して、今でも魅了される。

 

 

 *日本一の怨霊となったと言われる崇徳上皇ウィキペディアより)