小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

3 後白河院 井上 靖 (1972)

 帝位に就くとは思えず、女官を侍らせて今様三昧だった即位前の後白河天皇。ところが思いがけずに即位すると、朝廷はかつてない権力闘争に巻き込まれる。その中で後白河天皇は皇室、摂関家、平家、源義仲源義経源頼朝と数多くの権力者が舞い踊る舞台の主役を務めた。

 浮き沈みの激しい武家たちを翻弄して、頼朝から「日本一の大天狗」と呼ばしめた後白河天皇上皇法皇)を、当代に残った4つの日記の著者が一方的に語る形式で綴られた、非常に凝った作品。そのため最後まで語り口調のみで会話も地の文も一切ない。何より主役の後白河院の言葉もない中、姿もうっすら見える程度だが、そこから「正体」を浮き上がらせようとしている。

後白河法皇ウィキペディアより)

 

第1部 平信範(日記「兵範記」)

 平清盛の正妻、時子の叔父に当たる人物で、九条兼実(第4部)からの依頼で語り始める。

 兼実の父藤原忠通も中心人物として加わった保元の乱。兼実の祖父忠実と叔父頼長が忠通の敵に回り、皇室、源氏、平家とそれぞれが親子兄弟敵味方に分かれて戦う。そして続けて平治の乱が勃発する。

 この2つの戦闘が終り、平信範は「長い間陰気にくすぶっていた皇室や公卿の対立が、合戦というもので、あっという間に片付いてしまったということでございます」と語り、反対勢力が武力で一掃されることの「効果」を述べている。また信西入道はその優秀な頭脳から、「相手の人物を見間違えることはなかったと言われておりますが、後白河帝だけは、ついにいかなるお方かよく存じ上げないままに他界してしまった」と語らせている。

 そして後白河院を「平生は到底天子の器にはお見受けできないが、然るべき場所のお据え申し上げさえすれば、さすがに自から御血筋が物を言い、何をお考えになっているか判らないおっとりしたご風貌も却って威厳となって、なかなかどうして立派なものである」と評している。

 

第2部 建春門院中納言(回想記「たまきはる」)

 建春門院は平清盛の正妻、時子の妹滋子を指し、中納言はその滋子に仕えた女官(女房)。歌人として優れた藤原俊成の娘であり、「歌聖」藤原定家の姉にあたる。そんな中納言から見た、皇室内部の平家全盛時代の話。後白河天皇が譲位したあと妃となった建春門院に付き添った中納言は、滋子を「あなうつくし」と称え、数多く付き添った女房たちがファッションを楽しみ、時に競い合う姿を語っている。

 建春門院から見ると姪にあたる清盛と時子の娘徳子が、建春門院の子高倉天皇に入内する。その時の感想を「徳子姫入内が女院のお仕合せになることであるかどかということになりますと、すぐには判りかねる思いでございました」と含みのある言葉で語っている。

 建春門院滋子は35才の若さで亡くなる。「女院崩御遊ばされたことで、それまで世の鎮めとなっていた重しのようなものが失くなってしまったのではないかという気がしたします」と語り、後白河院も加担したと言われる鹿ヶ谷の陰謀が露見し、そして平家が段々と凋落して、姉時子や姪徳子も壇ノ浦に入水する運命となる。その場に立ち会わなかったことは、滋子にとって「仕合せ」だったのか。

 

 *刀剣ワールドHPより

 

第3部 吉田経房(日記「吉記」)

 吉田経房後白河院の側近として宣旨院宣の草案を書く一方、平清盛からも信頼された実務官僚。平氏打倒の鹿ヶ谷事件から義仲の上洛を中心にして語られる。

「人間にはそれぞれ時々に持つ勢いというもがあって、院は入道相国をお引き上げにならざるを得なくてお引き上げになり、その勢が衰えを見せる時の来るまで、お待ちになろうとなさった」

「院は西に奔った平氏に対しても追い討ちをかけるような態度はお採りになっていないのである。平氏を賊軍という名で呼び、平氏追討の院宣を義仲に降ろしてはおられるが、併し、平氏に立ち直る時を与えるために、義仲の軍勢が京に留まるのを黙認なさっておられたのである」

 史上の印象とは異なる、時勢を見る目が卓越した後白河院を表現している。

 

第4部 九条兼実(日記「玉葉」)

 先にも登場した九条兼実は、摂関家嫡流でありながら源頼朝の代弁者とも言われて、後白河院から遠ざけられてしまう。そんな兼実が語る後白河院の「正体」は、説得力に満ちている。

 平相国入道に対して見せた同じ笑顔を、木曾殿にも、九郎義経にも、そして今また頼朝卿にも見せている。若しもこの世に変らない人があるとすれば、それは後白河院であらせるかも知れない。左様、後白河院だけは六十六年の生涯、ただ一度もお変わりにならなかったと申し上げてよさそうである。

 院はもともと誰をもお恃みにはなってはいらっしゃらなかったのである。

 よくご存知になっていらっしゃった上で、そのことを余に余の口からお出さしめになろうとなさったのである。院はあの時将来頼朝卿に自分の味方と思われるような公卿をおつくりになっておく必要をお感じになっていられたのである。そして余兼実を、そのような役目を果たす公卿としてお選びになられたに違いない。ただ、余は頼朝卿の味方であっても、必ずしも院のお味方ではなかった。その意味では院の御心に添い奉らなかった。今はただ院にお詫びしたい気持が頻りである。

  

 *九条兼実ウィキペディアより)

 

 身近な人から見た後白河院。まだ実権がない時代に保元・平治の乱が起きてて、平家全盛から源平合戦で敵味方、勝者と敗者がたちどころに入れ替わる時代を生きた人物。その巧みな人心収攬術は「天狗」の名にふさわしい。

 後白河院を間近で見た人たちの感想は、それでもまだ院の真実を捕らえたとは言い難い。そのような人物を描くには、このような形式も1つの手法だろう。

 後白河院でなければ、なかなか成立しない形式。