小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

2 清盛 三田 誠広 (2000)

【あらすじ】

 1118年に生まれた平清盛。母は白河法皇に仕えていた女人だが、法皇から伊勢平氏の棟梁である忠盛に妻として下された女性。生まれるとすぐ亡くなり、白河法皇の元で権勢を握っていた姉の砥園女御に育てられた。そのため長男でありながら平家の血筋を引いていないと周囲から見られて、嫡男として扱うには叔父の忠正を始め、抵抗する者もいた。ところが正妻の池禅尼の子供である家盛が急逝し、また識見も次第に父忠盛に認められて、棟梁の座を継ぐことになる。

 

 清盛は若くして武士とは思えない高い官位を受けたため、周囲は白河法皇落胤説を信じた。しかし清盛は自身も年老いた白河法皇のそばで遊んだ記憶が残るも、平忠盛の子として、武家の棟梁として生きていく決意をする。そして「武士」から見ると、公卿たちが官位のために姑息に動き回る姿に、到底同調できなかった。 

 

 鳥羽上皇の元で、長男の崇徳上皇と弟の後白河天皇の間に生じていた対立は、摂関家でも現関白の藤原忠通と、異父弟で頭脳明晩な藤原頼長の対立にも波及した。そして当代随一の儒学者である藤原信西入道は後白河天皇について、自ら権力を掌握しようと目論む。

 

 京に近い西国を支配する平清盛は一番の勢力を掌握していて、戦いの掃趨を握っていた。妻時子は、崇徳上皇が勝利した場合は藤原頼長の勢力が増すばかりと見て、ここは無冠の信西入道が肩入れする後白河天皇側に付くべきと伝える。その考えに乗った清盛は天皇側に付き、保元の乱で勝利を治める。

 

 第1の恩賞を受けた清盛に対し、同じ武土の棟梁である源義朝は少ない恩賞に加え、自らの手で父を処罰させた朝廷の判断に恨みが残る。そして意のままに振る舞い周囲に敵を作っていた信西人道に不満を覚えていた。信西の強引な手法は後白河天皇も難色を示すほどで、戦いの火蓋が再度切られようとしていた。

 

  *平清盛ウィキペディアより)

 

 清盛が熊野詣をして京を留守にしている隙を狙って源義朝は挙兵する。真っ先に信西人道の命を絶ち、後白河上皇を幽閉する。その後平家を滅ぼそうとしたが、清盛は準備に抜かりなく、東国からの兵が届かない源氏に対して優勢にことを運び、この平治の乱でも勝利を収め、その威勢は並ぶものなしとなっていった。

 

 治天の君として権勢を振るう後白河上皇に対し、清盛は待子の妹滋子を入台させ、時子との娘徳子を中宮として、藤原氏と同じ外戚関係で実権を握ろうとする。その結果清盛は太政大臣となって朝廷の頂点に駆け上がり、後白河上皇と虚々実々の駆け引きを繰り広げることになる。

 

 宋との貿易を進めるために、奥川藤原氏の独立を実質的に認めて鎮守府将軍を任じる。奥州から採れる金などの特産品を輸入品として、貿易を活発化して日本に富を引き入れようとする。福原遷都は貿易の港を抱えるために欠かせないものだった。しかしその結果、奥州藤原氏で匿われていた源義経を助けることになる。

 

 運命の皮肉を知ってか知らずか、父を知らぬ清盛は白河法皇の夢をみながらその生涯を終える。

 

【感想】

 白河法皇の子と噂される崇徳上皇と「異父弟」後白河天皇が争った保元の乱において、もう1人白河法皇の「落胤」と噂された平清盛が、勝負の帰趨を握った。白河法皇はその奔放な女性関係によって、皇室の権威を衰えさせるだけでなく、武士が政治に進出するにふさわしい人物も生み出してしまった

 また院政によって凋落した藤原摂関家は、復権を目指して兄弟間で権力争いが起き、対立を激化させた。そこに白河法皇が院の権威と荘園を守るために創設した、平忠盛を初めとする北面の武士が中央政界に進出するきっかけとなった。

 平清盛もまた「父」に似て独裁者と思われているが、実際には神経が細やかで部下や周囲に気配りを忘れない人物だったという。そのような人が出世して止める人がいなくなると、往々にして独裁者になる場合がよくある。本作品での清盛は、妻時子やその弟で「平家にあらずんば人にあらず」と語った平時忠の意見を聞き入れ、周囲の状況を見守ってようやく決断する、一般的なイメージとは違った人物として描かれている。

 そんな清盛が、正妻時子に促されて自ら動いたのが平治の乱。緊張した情勢の中、敢えて京を離れて熊野権現詣に出かけた隙に源義朝に挙兵させる。このやり方は、後に上杉討伐を名目に大坂を離れ東国に赴き、石田三成に挙兵を促した関ヶ原前夜、徳川家康の「乾坤一擲」の勝負と重なる。

 

 *ライバルであり頼朝の父、源義朝ウィキペディアより)

 

 武家の棟梁である清盛だが、崇徳上皇信西入道、後白河上皇との「言葉」での戦いも繰り広げられる。自らの身分をわきまえて余計なことは言わずに、情報を収集しては時子と語らい後の指針とする。そのやり方は地味で無口な「父」忠盛と通じるところがある。

 徐々に勢力を伸ばして権力の頂点に立つ。但しその頂点の立ち方は、「武家」がいないころのやり方であり、「落胤」清盛だからこそできたもの。武力を使って権力を握った者がその武力を疎かにしたら、痛いしっぺ返しとなることを教えている。そして本作品で描く清盛は通常のイメージである独裁者からは離れて、妻時子などの意見を聞き、子供たちを大切にし、そして日本を富まそうとする政治家として描かれている。これも作者三田誠広が、あらたな視点から光を当てた清盛像となった。

 時子から大切にするように言われた、父の正妻で義母の池禅尼の要望で助命した源頼朝によって平家は滅亡して、時子は壇ノ浦で娘の建礼門院徳子、そして孫の安徳天皇とともに海に身を投げることになる。

 そして時子の弟で「平家にあらずんば」と語った平時忠は、死にきれず源義経に頼って助命を嘆願し、能登国に配流となった。

 

 *平家と皇室の関係図(刀剣ワールドHPより)