小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

6 炎環 永井 路子 (1969)

 

【あらすじ】

 編集者として活躍していた永井路子が初めて世に出した4編からなる短編集で、翌年直木賞を受賞した。後に上梓する「北条政子」とともに武家政権のあけぼのとなった鎌倉初期を舞台とした物語で、大河ドラマ草燃える」の原作となった作品。「悪禅師」と「黒雪譜」の影の主役は源頼朝とも言えるが、「いもうと」と「覇樹」は、源氏に代わって執権として権力を握る北条一族の「血」を見事に描いている。

 

 

1 悪禅師

  主人公の阿野全成は、父は源義朝、母は常盤御前。頼朝の異母弟にして義経の同母兄にあたり、義経の幼名牛若に対して今若と呼ばれていた。幼い時から醍醐寺に預けられたが、その生活に不満が溜り、頼朝の挙兵を聞いていち早く駆けつける。その姿に頼朝は涙を流して喜ぶも、その後駆け付けた義経にも同じ姿を見せることで、頼朝の本当の性格を知ることになる。

 頼朝の勧めで妻・政子の妹の保子と結婚し、頼朝夫婦や北条氏とも繋がりをもち、頼朝に控える形で大人しく鎌倉で過ごす日々が続く。頼朝が上洛軍を編成する時、範頼や弟の義経が大将として軍を率いるという噂が出るが、全成の名前は出てこない。僧兵として鍛えていた彼は弟の義経にまで遅れをとるのに不満で、姉の政子とは性格が異なる無邪気でおしゃべりな妻の保子を通してアピールするが、結局は選ばれない。

  阿野全成ウィキペディアより)

 

 そんな中も大人しく過ごした全成だが、頼朝と政子夫妻に子ができ、同じ時期に自分も子ができることで野望が心の中に芽生える。政子が産む男子を妻であり政子の妹の保子が乳母として、自分はその養父となり立身が望めないか。政子が生んだ次男を、政子は妹の保子を乳母に依頼する。長男の頼家は独断専行で御家人の心が離れていく中、全成は保子が乳母の次男実朝を世に出そうと企みを講じる。

 その時全成は将軍頼家から謀反の疑いで呼出を受ける。否定する全成に対して,源氏と北条家の両方の血が流れる頼家は、源氏の非情な宿命と、北条家の冷徹な定めをもって、叔父の全成に問いただす。

 

2 黒雪譜

 主人公は梶原景時石橋山の戦いで敗走した頼朝を見逃した景時は、後に頼朝の信頼を受けて幕閣の中枢を占める。頼朝に仕えるうちに、その表情の裏にある頼朝の「真の思い」を察するようになる。頼朝は内心をロに出さないが、その思いを梶原景時は先取りして、頼朝の意向を進めて行く。

 それが時には誤解を招く。景時が独断専行していると他の御家人の反感を買うこともあるが、景時はそれでも頼朝の思いを優先する。それが時に義経御家人への謹言と捉えられることもある。

 しかし頼朝が突然死を迎える。後を継いだ2代目将軍頼家の後見として幕府を更に盤石にしようとするが、頼家の乳母だった比企能員と対立してしまう。景時の真意を理解し、盾となっていた頼朝はいなくなり、景時は多数の御家人から攻撃を受ける立場になってしまう

  梶原景時ウィキペディアより)

                                                                                                 

3 いもうと                          

   主人公は第1話の主人公阿野金成の妻、阿波局こと北条保子。妹たちが有力御家人に嫁いでいく中、保子もいそいそと結婚準備をしていた。ようやく姉の政子が持ってきた縁談話は頼朝の弟全成。血筋はともかく、地味で権力もない全成だが、保子は言われるがまま嫁ぐ。

 保子は頼家以降男児が生まれない政子をしり目に数人の男児を産み、乳母として保子になつく千方(実朝)を政子は複雑な目で見る。朗らかでおしゃべり好きな性格は、「誰にも言わないで」と頼朝の浮気話をしゃべり、それが回って政子が知るところとなり、相手の家を打ち壊すまでの大騒ぎとなる。その無邪気なおしゃべりは、徐々に姉政子の心を苛立たせていく

 そんな無邪気な保子だが、夫の全成が謀反のかどで将軍頼家に捕らえられてしまい、政子に必至の嘆願をする。しかし北条家の冷徹な「掟」は親族でも許さない。そして保子に対しても捕縛の手が伸びようとしたとき、保子にも「北条」の血が流れていることが政子は理解する

 

 *「鎌倉殿の13人」神納慎也と宮澤エマの夫婦も、また見事なキャスティングでした。(NHK)

 

4 覇樹

 主人公は政子の弟で、第2代執権となる北条義時。長男宗時からいつも1歩引いた場所にいたが、宗時が戦で亡くなり義時が後継者の立場につく。源平合戦の時も目立った活躍はなかったが、頼朝と政子の「夫婦げんか」では、父の時政に従わず鎌倉に残った事で頼朝の信頼を得る。周囲から目立たないように過ごしながらも、対立する有力御家人を次々と追い込み、遂には父である時政をも追放する。

 甥の3代将軍実朝が右大臣就任の儀式の際、鶴ケ岡八幡宮への参拝に付き従っていたが、そこで本来いるべき頼家の子公暁の姿が見えないことから凶事を予感して、自らは急病と偽って危険な場所から立ち云った。

 実朝の死で実権を握った義時に朝廷との対決が待っていた。後鳥羽上皇は地頭職の改任を幕府に求め幕府を揺さぶる。対立は先鋭化し、遂に後鳥羽上皇は義時追討の院宣を発する。動揺する御家人たちに対して、幕府創業の忠臣大江広元と三善善信は、院宣は過去頼朝も逆賊とされた時もあり、戦いに勝てば簡単に翻るものだとして義時に覚悟を求める。そして義時は初めて発言する。

  「謀反ではないぞ、上皇こそ御謀反遊ばされたのだ」と。

 

  北条義時ウィキペディアより)

 *北条義時と泰時親子は、鎌倉幕府だけでなく武家政権700年の礎を築いたと思っていますが、私の嗜好に合う歴史小説は探せませんでした。改めて永井路子三谷幸喜の慧眼が光ります。