小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

6 陽炎の飛鳥 小説聖徳太子 上垣外 憲一 (2010)

【あらすじ】

 西暦595年、大和朝廷に招かれ来日した高句麗の僧、慧慈。倭国では伝来して間もない仏教に基づく国づくりが進んでいると聞かされ、その中心人物と言われる厩戸皇子聖徳太子)に期待していた。太子を教え始めた慧慈は、仏教の本質を捉えた太子の瑞々しい感性に驚く。鎮護国家を目的とする呪術的な仏教の中から、太子は平等思想を見出していたが、それは和を旨として暮らしてきた日本民族の伝統を、呼び覚すものだった。

 

 蘇我氏の血統も受けている太子は、推古天皇の摂政として国政に関与していた。飛鳥の地には法興寺を建立して仏教の中心地にする。そして難波にも四天王寺を建立して、その地で滅亡した物部氏の鎮魂を行うとともに、病の者を救う施療院も設けることで仏教の教えを広めようとしていた。

 

 当時朝鮮半島の情勢は緊迫していた。日本と友好関係にあった任那は562年に新羅によって滅ぼされる。新羅倭国朝貢を持って従う意向を示していたが、その実行がない。そんな中589年に中国で強大な隋帝国が建国され、隣接する高句麗を攻める。新羅は隋に協力するも、高句麗は何度となく攻め入る隋の大軍に対して撃退することに成功した。その様子を見ながら百済そして倭国は協力して新羅に攻め入る姿勢を示す。

 

   聖徳太子東洋経済オンラインより)

 

 そんな中、仏教による秩序を目指す太子。冠位十二階を設けて豪族に頼らない階級を定め、その精神は十七条憲法で結集する。刑罰を重視する蘇我馬子に対して、仏教の精神を広めようとする太子。そして法制面の整備が進んだ隋へ若者を派遣して、将来の大和朝廷を築くビジョンを描いていた。

 

 615年、再三の隋からの侵攻を防いだ高句麗だが、祖国も疲弊していると聞いた慧慈は太子に帰国を願う。慧慈が来日した頃の野蛮で殺伐としていた倭国は、太子の尽力で仏教の教えが広まり、秩序ある社会が形成され、学問が奨励される世の中に変わっていた。

 

【感想】

 聖徳太子を主人公とした小説はいくつか上梓されているが、その中から高句麗の僧慧慈の視点を生かした本作品を取り上げた。慧慈が来日した595年が物語のスタートとなっているため、587年に起きた蘇我、物部の闘いも記しておらず、また蘇我馬子崇峻天皇天皇候補の竹田皇子や皇太子候補を殺害した「黒幕」としての詳細も省いている。そのためか本作品は、ノイローゼに陥ったとされる太子が自ら率先して仏教や政治に向き合う、前向きで真摯な姿勢を前面に出して描かれている。

 聖徳太子は前回取り上げた継体天皇のひ孫にあたり、父は用明天皇、母は蘇我稲目の娘。そして妻は蘇我馬子の娘であり、その能力もあって本来は次期王位に一番ふさわしい人物であった。ところが叔父である天皇や従兄弟である天皇候補が殺害されており蘇我の血脈とは言え、天皇となって自身の考えを貫こうとしたら、命の危険もあったのではなかろうか。

 本作品の特徴は(私が弱かった)当時の倭国朝鮮半島および中国の隋国についての関係を、細かく描いていること。当時の唯一と言っていい強大国「隋」に対して、周辺諸国はどのような対応が必要なのか。隋に隣接する高句麗は、皇帝煬帝によって何度も侵攻を受ける。新羅朝鮮半島の覇権を握ろうとして隋に忠誠を誓い、反対に百済朝鮮半島の安定を願い、高句麗に攻め入ることはしなかった。3国の対応は分かれ、それが聖徳太子の死後、白村江の戦いへと続いていく。

 

   *「玉虫厨子」に描かれた捨身飼虎図。飢えた虎の母子に自らの肉体を布施するという物語

 

 また聖徳太子が持つ、仏教に対しての明敏な考察力を描いているのも特徴の1つ。太子が慧慈に訊ねた「餓虎捨身」の物語から、飢えた虎は貧しい民衆を表し、元々恵まれた寺院へのお布施と供養に差があるのかと慧慈に切り込んでいく。慧慈は「ない」と答えながら、太子の仏典に対する理解の鋭さに驚く。その思想は当時「奴」として虐げられていた農民たちを解放する平等主義に通じ、「大王支配」大和朝廷の構造を根底から覆す可能性があった。これも蘇我馬子が太子を天皇に擁立させなかった大きな理由となり、その子山背大兄王蘇我入鹿に命を奪われた原因になったと思われる。

 仏教が正式に伝来してからまだ半世紀足らず。大陸の新文化が日本にもたらすものは、当初は巨大な寺院を建築する技術や、目を眩む鮮やかな仏像、そして調度品などの文化だが、深く思想を突き詰めるとその国の政体を変える危険性も孕む。それは戦国時代に鉄砲とともに伝来したキリスト教が、当初はヨーロッパの文明をもたらすものとされたが、その思想が広がるにつれて権力者から迫害され、そして禁教となった経緯に重なる。

 本作品ではそれだけでなく、冠位十二階憲法十七条、そして遣隋使聖徳太子の偉業として、武力から律令への過程を作ったとされて、「美しく」描いている。聖徳太子が隋に送った南淵請安は、約30年後に日本に戻り、開校した塾で学ぶ中大兄皇子中臣鎌足を結びつけるきっかけとなり、大化の改新に結びついた。

 疲弊した祖国高句麗に戻って弔いを続けてきた慧慈は、622年4月8日に弟子の太子が没したことを知る。太子の師匠は弟子と同日に死ぬことを望み、その望み通り翌年の623年4月8日に亡くなった

 

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黒岩重吾が描いた聖徳太子は、理想を求める皇族が、権力者であり義父でもある蘇我馬子と緊張関係にある姿を描きました。