小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

8 わしの眼は十年先が見える: 大原孫三郎の生涯 城山 三郎(1994)

【あらすじ】

 地方の一紡績会社「倉敷紡績」を有数の大企業に成長させた優れた経営者の一面と、社会から得た財はすべて社会に返す、という慈善家としての一面。大原孫三郎は、学生時代は放蕩生活を送り、また周囲からも騙されて巨額の負債を背負う経験を持つ。但し父の後を継いで経営者になると、周囲が会社の利益を追求するも、利益は社員と会社に還元しようとする自分の信念は曲げず、反対意見には「わしの眼は十年先が見える」と言って押し切った。

 治安維持法の時世に社会思想の研究機関を設立。倉敷に東洋一を目指す総合病院を設立。そして世界に誇る美の殿堂を建てる。大地主の息子として生れ、理想の企業経営と社会への還元を両立させて、当時の日本では考えられない「桃源郷」を、岡山の1地方に築きあげた。1人の人間の成長から企業のあり方を描く。

 

【感想】

 2代目の人間的な成長を見つめながら、企業の成長を描く。城山三郎特有の、経営者としてただ利益に汲々とせず、社会に還元しようとする「信念」の姿を、表面となぞるように描きつつ、時折急所を貫く手法が生きている作品。そして2代目が「信念」を持って企業経営に当たる姿は、以前紹介した同じ城山三郎の「男たちの経」を思い起こさせる。

 

nmukkun.hatenablog.com

 

 倉敷という地方で紡績会社を大企業に育て上げた大原孫三郎は、ますその利益を会社の従業員に還元する。職場環境や居住状態など、「福利厚生」面で他社とは際だった違いを見せる。また職員の教育にも気を配り、社内に小学校を設立するほど力を入れた。

 そして物語の大半を、孫三郎と当時岡山で慈善活動を行っていた石井十次との交流に費やす。キリスト教の教えに基づき、孤児の育児作業に没頭して次第に孤児の人数が増えていく。その姿と思想に感銘を受けた孫三郎は、会社の利益も含めてどんどんと肩入れしていく。当初は無尽蔵とも言える勢いで資金を供与して、石井の事業を支えていくが、石井も毀誉褒貶が激しい人物で、慈善事業だけでなく個人の享楽へもお金をつぎ込んでいる噂が絶えず、また自らもその姿を見てしまい、一気に熱は冷める。お金があるからいいものも、結局は学生時代に周囲に騙されて借金を大きくした姿を彷彿させ、「わしの眼は十年先が見える」と胸を張って言えるとは思えない状況である。

 そのため大原美術館の建設には反対運動が起きる。ちょうど倉敷紡績の経営が危機を迎え、銀行管理による指導が入って厳しいリストラ策を強いられる。人員削減や給料の減額などを進めている片腹で巨額の美術館建設に推進する姿は、お金の出所が違うと言っても周囲には納得できない姿だろう。

 但しこの「分不相応」と言える大原美術館の貴重な展示品の存在で、アメリカ軍が美術品を損なうのは忍びないと、まるで京都を空襲しなかったのと同じような理由で倉敷も戦争による破壊から免れる。そして現在に至るまで多数の観光客を招き、10年どころか100年の計と言ってもいいほどの成果を収めることになる。

 2代目の恵まれた環境は、当時の創業者が激烈な競争を勝ち抜いて、資本を集中させて(=社会や社員に相応の利益を還元せず)巨大財閥を築いた経緯とは違い、ともすれば「道楽」のようにも見える。これは地方で独立王国として存在したことも理由の1つだが、孫三郎の出身地にあった閑谷学校の教育方針もあると想像する。徳川四代将軍家綱の時代に生れた閑谷学校は、当時は画期的な庶民にも門戸を開いた学校で、藩財政からも独立させて、学校が後世に残るように運営を工夫して、その通りになった。身分制度が厳しい中で培われた300年は先んじた思想が息づく岡山県だからこそ倉敷紡績が、そして大原孫三郎が生れたと想像してしまう。

    +大原孫三郎(ウィキペディアより)

 そして城山三郎は、本作品を孫三郎が1943年に亡くなった後、息子の総一郎の、孫三郎を思わせるような生涯の軌跡を重ねて描き、この主人公の人生を「なぞるような」物語を締めくくっている。