小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

9 孤闘 立花宗茂 上田 秀人(2009)

【あらすじ】

 大友家の忠臣、高橋紹運の長男として生まれた立花宗茂。家内で武勇を誇る立花道雪戸次鑑連)は、娘の誾千代(ぎんちよ)に家督を譲る儀式の時に目を留め、養子に迎えたいと高橋紹運に懇願する。紹運は宗茂は嫡子でもあり申し出を断るが、道雪は強引に意向を押し通し、誾千代と祝言を挙げて宗茂は婿養子となる。しかし闇千代は宗茂を当主と認めない。婿として名と戸次統虎と改めた立花宗茂の、孤独な戦いが始まる。

 

 立花の家風に合わず、誾千代からはいつも蔑みの目で見られる宗茂。しかし腹を決めて武術を鍛え戦略を学び、武将としての地位を固めていく。大友家は龍造寺と島津の連合軍と戦い、敵将の龍造寺隆信を討ち取って筑後国を奪還することに成功するが、ここで猛将立花道雪が高齢で病死し、大友家の家運が一機に傾いてしまう。

 

 1586年、島津軍が九州制覇を目指して北上する。実父の高橋紹運は徹底抗戦の末に討ち死にし、宗茂も4万の包囲軍に1千人で立ち向かう。しかい鉄砲の玉も矢も尽き、あと1日しか持たない状況の中、秀吉20万の軍勢が上陸して、窮地を脱した。実父を犠牲にし、島津軍をわずかな兵で撃退した宗茂に秀吉が賛辞を惜しまず、九州平定後は大友家から直接豊臣家に引き抜かれ、筑後柳川13万石の領主となった。

 

 しかし誾千代は面白くない。宗茂が衰退した大友家を凌ぐ勢いとなり、家臣たちは生死を共にした戦場で勇敢に戦う宗茂に心服して誾千代から離れていく。宗茂は命を張らずに蔑むばかりの誾千代が我慢ならない。ここで夫婦の仲は決定的に亀裂してしまう。

 

 秀吉は諸大名の前で宗茂を「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評し、立花宗茂の名は全国に知れ渡る。朝鮮の役でも宗茂自らが血まみれになり、「鬼将軍」言われる活躍をする。しかし無益な戦いが続く宗茂の心は、徐々に秀吉から離れていく。

 

  立花宗茂ウィキペディアより)

 

 秀吉が薨去すると、宗茂は家康に与するべきと考えるが、脳裏に誾千代の姿がちらつく。義父も実父も大友家に最後まで忠誠を尽くしたが、自分は主君を豊臣家に替えてしまった。ここで再度主君を替えたら、誾千代に会わす顔がない。

 

 領地を受けた恩に報いるため豊臣方に参じる宗茂。西軍本隊とは別に近江の京極家を攻め、立花家の名を挙げる宗茂だが。その間に本隊が関ケ原で戦い敗れてしまう。立花家は改易と決まり、一時は籠城するが周 囲の説得もあり降伏し開城した。その姿を見て誾千代は、初めて宗茂に心を開く。

 

 その誾千代も2年後に病没する。宗茂は様々な大名から仕官の誘いを受けるが断り、従う家臣たちと浪人生活に入る。かつて秀吉から評された「東の本多忠勝」から家康にとりなしてもらい、5,000石の旗本で家名再興を許されると、その後少しずつ加増されていく。

 

 大阪の陣では将軍秀忠の側で参謀役を担い、遂に幕府から旧領の筑後柳川11万石を与えられた。関ケ原に西軍として参戦し、一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となった。その後も長生きし、76歳の寿命を全うした。

 

 

nmukkun.hatenablog.com

宗茂の義理の父、立花道雪を描いた作品。作者の赤神諒は「大友サーガ」を構想しており、いずれ立花宗茂の作品も上梓されると思います。

 

【感想】

 先に取り上げた「戦神」では、立花道雪を豪快で裏表ない好漢に描いているが、本作品では「妄執に囚われた策謀家」として扱っている。宗茂を養子に貰い受ける時も、相手の事情を考えず自分の都合だけで押し通す、強引な性格を描いている。その一端が異例とも言える娘への家督相続。

 本来ならば、養子を迎えてから家督を継がせるもの。そうしなかったを理由を、実は誾千代は当主大友宗麟落胤としている。道雪が雷に打たれ半身不随に生まれた闇千代に対して、遺書では娘に恋慕を抱き、将来は嫁にしたい「妄執」をもったまま立花宗茂を養子に迎えたと、心情を吐露している。

 

  *誾千代(ウィキペディアより)

 

 宗茂の立場もないが、誾千代も「父」道雪に翻弄された人生を歩むことになる。異例の家督相続より、女性より戦国の当主として生きる決意をしなければならず、そのため婿養子にも心を開けない。そのうち今まで家臣並みに見ていた宗茂が、戦場で活躍して家臣も心服すると、一人置いてきぼりにされてしまう。

 本作品では関ケ原の戦いで改易となってようやく、夫婦お互いの心の奥がわかりあう設定にしている。そんな誾千代の心を知った宗茂は、前田家や加藤家から家臣に勧められるも、浪人する。頑なにお家再興にこだわったのは、朝鮮出兵で逃亡して改易された主君大友家の柱石だった義父道雪とその娘誾千代に対する「義理」もあったのだろう。

   その誠意が、そして真っ直ぐな宗茂の生き方が家康を動かして、改易後に同じ領土に復帰する唯一の大名となり、究極の「大名サバイバル」を成功させた。

 徳川幕府は家康が「欲」を操つることで成立した政権だが、将軍家への「忠孝」を礎としなければ続かない。没落した主家に文字通り命を懸けて尽くした義父や実父、そしてその血を受け継ぐ立花宗茂を、家康は必要とした。

 

*石垣造りの名人「楯」と、鉄砲職人「鉾」の戦いを描いた直木賞受賞作。当世最高の鉄砲使いとして、立花宗茂が登場します。

 

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8 奥州戦国に相馬奔る 近衛 龍春 (2020)

【あらすじ】

 平将門を祖とし、源頼朝の挙兵に参じてから相馬を400年支配した名門の相馬氏。源氏が優れていた馬術に引けを取らないように、代々騎馬隊に磨きをかけてきた。相馬義胤の代になると伊達政宗が奥州の争乱の中心となり、領地争いが盛んになる。

 

 相馬に対し、高飛車に臣従を求める政宗。対立する豪族たちを「撫切り」や裏切りエ作を行い、覇道を邁進する。相馬と同盟していた田村家からは、愛姫を嫁に迎えて両家にくさびを打つ。強引な政宗のやりロに義胤らは反発し、佐竹義重の応援を受けて、人取橋で政宗と対決する。3倍の兵力で撃退させるが、伊達軍は決死の覚悟で撤退し、政宗の命を奪うことはできなかった。

 

 その後秀吉の天下が定まり、私戦を禁じる惣無事令が発せられた。しかし政宗は命令を無視して名門盧名家を滅亡に追い込み、続いて相馬領に攻め入る準備を始める。小田原に参陣を求める秀吉に対し、義胤は身動きが取れなかったが、当の政宗は滑り込みで小田原に出向いた。小田原参陣をしなかった他家が改易される中、相馬家は石田三成のとりなしで本領の4万8千石の領地を安堵される。また検地から領国経営まで親切に教えを受け、三成の恩情を多とした義胤は、嫡子に三成の一字を貰い、三胤と名付ける。

 

 伊達家との紛争も収まり、義胤が領国経営に精を出す中、秀吉が薨去し三成と徳川家康の対立が勃発する。三成に恩義がある相馬家は、隣国の佐竹義宣と共に徳川方の上杉征伐には加わらず静観する。ところが関ケ原の戦いは僅か半日で終り、佐竹家は出羽に減転封され、相馬家は改易の沙汰が下りる。嫡子の三胤(改名して利胤)は、微かな伝手を頼りに本多正信に対してお家存続運動を行なう。望みは薄いと思われたが、幸運も重なり奇跡的に改易は撤回されて、減封もなく本領安堵された。

 

 *相馬家と周辺の関係図(本作品より)

 

 しかし相馬家に更なる試練が襲う。1611年、「海嘯(よだ)」と呼ばれる大津波が奥州の太平洋側を襲う。海岸線から3キロに渡って人や牛馬を飲み込み、田の多くは海水に浸り当面使い物にならず、収穫も大幅に減少する。農民は悲観して逃散するが、義胤と利胤は領国を立て直すため、命を削る。

 

 しかし5年後、またしても津波が襲い、領民たちは皆絶望の淵に立たされる。幕府のお手伝い普請も重なり、改易を回避した利胤は必死になって当主の務めを果たすが、心労も重なり義胤に先だって病死してしまう。義胤は孫の2代藩主、虎之助の後見役となり、隠居した後も藩政に尽力した。孫に藩政の全てを伝え、2代将軍秀忠にも先立たれた後、88歳の長寿で没する。

 

 遺言は「屍に具足を着せ、北に向かって葬るように。死して相馬の守り神となろう」。最後まで伊達政宗を敵と見做したが、その政宗は翌年70歳で亡くなる。

 

*毛利、島津と続いた「戦国サバイバルシリーズ」の第3弾。主人公の南部信直は、「天を衝く」で取り上げられ、また「海嘯(津波)」から復興を目指す姿も共通しているため、ここでは同じ作者の本作品を取り上げました。

 

【感想】

 戦国末期、奥州に伊達政宗が現れて、周辺に大きな影響を与える。相馬家は領土が隣接して、親の代から紛争が絶えなかった。しかも伊達家の動員能力は相馬家の10倍もある。それでも相馬家は周囲の豪族と信義に基づく付き合いを重ねて、また「義」の人、佐竹義重の力も借りて、政宗を常に敵として対時した。

 相馬義胤は、女性たちが残る城への攻撃は控え、約束は違えず、参戦も領土拡大を目的とはしない。そのためか政宗の描き方は完全に「敵役」。自分本位の考え方で、妻の愛姫とも仲違いしていると描かれている。

 そこに秀吉と家康が現れて、それぞれ対応を迫られる。相馬家は秀吉、家康に対して共に初手を誤ったにも関わらず、改易の危機を切り抜けた希有な例となった。秀吉からは小田原に参陣しなかった奥州の大名の中で、唯一といっていい存在で本領を安堵された。本作品では理由を石田三成が秀吉の誤ちを認めさせないため、としているが、判然としない。家康からは一度は改易を命じられながらも、嫡子利胤本多正信に対して必死の懇願を行い、改易を撤回させたばかりか減封も免れる。

 ちなみにこの時、競馬で判定すべく競争するが、利胤の乗った馬が鉄砲の音に驚いて大きな穴に人ってしまい、それがかえって戦場の習いに相応しいとされて改易が撤回され、競馬の「大穴」の語源となったという。但し本作品ではこの挿話は取り上げず、相馬家の祖、平将門の怨念が味方したと収めた。その方が、新たな関東の支配者となる家康に相応しい判断かもしれない。

 あきらめずに最後まで尽力し、何とか改易の危機を脱するが、そこで相馬家の苦難は終わらない。慶長の大津波。その400年後に発生する東日本大震災並みの津波が押し寄せ、内陸3キロまで海水が押し寄せて、相馬家の領土の約半分が海水に浸される。

 そこから始まる、血が惨め出るような辛苦を経ての復興活動は、東北の地に限らず日本各地で400年後の現代まで繰り返される。

 平将門以来1,000年続く「神事」相馬野馬追東日本大震災やコロナ禍などの苦難に遭っても、義胤と利胤の親子が命を削って乗り越えたかのように、現代も続いている。

 

 

 *相馬野馬追(相馬市公式ウェブサイトより)

 

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7 島津奔る 池宮 彰一郎(1989)

【あらすじ】

 豊臣秀吉の島津征伐後に家督を兄義久(龍伯)から譲られた島津義弘。秀吉の命により朝鮮に出兵したが、敗勢の中秀吉が薨去して帰国命令が出る。明・朝鮮連合軍は20万、対して島津軍は6千余り。しかも日本軍は皆退却の中にいて、援軍は期待できない。殿(しんがり)となった島津義弘は、「釣り野伏せ」の陣を引き、20万の連合軍を完膚なきまでに打ち破ると、続けて朝鮮水軍の英雄李舜臣をも撃破し、義弘は敵から「石曼子(シーマンズ)」と恐れられる。

 

 しかし領国は、長年の戦闘続きで疲弊しきっていた。しかも軍事を担当する義弘に対して、内政を担当する前当主で兄の義久は、戦で名を高めた義弘に嫉妬心を持つ。家中では宿老の伊集院忠棟が秀吉の朱印状を盾に、家政を壟断する。義弘は息子忠恒を使い伊集院忠棟を切り捨てることで家中を治めたが、忠棟の子伊集院忠真は内乱を起こし(庄内の乱)、関ヶ原まで続いていく。

 

 島津義弘は65歳になっても、外征に内政にと休む間もない中、島津家の行く末を定める必要があった。徳川家康石田三成の対立が明らかになり、家康による上杉征伐の話が持ち上がる。義弘は家康に与しようとするが、伏見城守護を家康の家臣鳥居元忠から断られてしまい、不本意ながらも三成方につくことになった。

 

 但し島津兵の大半は内乱で国元に戻り、大坂には500人程しかいない。国元に増兵を要請するが、義久は中立を標榜し動かない。ところが話を聞いた薩摩の地頭、長寿院盛淳は、自ら志願兵を呼びかけ、それに応じて具足櫃を背負った兵士が3人5人と肥後へ走っていく。農作業のさ中にその光景を見た中馬大蔵は、そのまま兵士の群れについていく。

 

  島津義弘ウィキペディアより)

 

 ようやく集った1,000人をまとめて島津義弘は西軍に合流する。しかし大将の石田三成は、大名を集める戦略はあったが、戦は素人で戦術が定まらず、それでいて周囲の意見に聞く耳を持たない。三成に愛想を尽かした義弘は、関ヶ原で戦いが開始しても、戦争に加わらないことを決意する。

 

 義弘の見込み通り、西軍は一旦崩れるとすぐに壊滅状態となった。戦いが全て終わり、戦場に最後に残された島津軍。島津軍は全員死兵と化して、敵将家康の本陣を突っ切って脱出する決死の行軍を行なう。多大な犠牲の元、島津義弘は薩摩に帰り着く。

 

 九州制覇の過程での激しい戦の数々、慶長の役での信じられない快勝、そして関ヶ原で家康本陣をも脅かした空前絶後の「退却劇」。これらを見せつけられた家康は、数々の交渉を重ねるも譲歩を引き出すことができず、島津家に対して本領安堵を約束するしかなかった。

 

 

 関ヶ原の陣形図。毛利軍(右下、青の蛍光ペン)と違い、島津軍(左上、赤の蛍光ペン)は戦場のど真ん中に陣取っていました(刀剣ワールドより)

 

【感想】

 最後の「補遺」で、関ヶ原の数少ない生き残りの中馬大蔵が、若き侍に関ヶ原を物語る逸話が、全てを語っている。「さても、関ヶ原と申すは・・・・」と三度絶句して言葉が出ない。そして脳裏に浮かぶのは、辛酸をなめた7年に渡る朝鮮の役であり、多くの犠牲を生みながらも関ヶ原から薩摩までの退却戦であった。

 戦国時代、九州全土を席巻した島津四兄弟。幾多の戦場で活躍した次兄の義弘(惟新入道)が本作品ても主役を演じている。しかし「島津は屈せず」では、本作品では精彩のない長兄義久について、時には秀吉、家康と知略で互角に渡り合う人物として、再評価している。

 

*「毛利は残った」に続く「大名ザバイバルシリーズ」の第2弾。「島津奔る」は義弘を主役としましたが、こちらは長男義久を主役としています。

 

 豊臣秀吉九州征伐で島津家を倒した上で本領安堵としたが、義久とは別に弟義弘には大隅一国を、そして元々秀吉との連絡役で懇意でもあった伊集院忠棟にも領土を与え、秀吉の島津家分断作戦は成功したかに見えた

 ところがそのために庄内の乱が起き、関ヶ原の戦いでは島津家が兵を充分に用意できなかった。もしも島津義弘の名声と、少なくても5千ほどの兵を抱えていたら、西軍でも発言力がだいぶ変わったはず(しかし、最初から東軍についたかもしれない)。

 関ヶ原の戦いが終り、取り残された島津軍は、退却方法に敵中突破(島津の退き口)を選んだ。猛将福島正則でさえも攻撃を控え、抵抗した井伊直政は鉄砲傷を受け、そのため後日亡くなる。

 1,000人の軍勢が200人に減りながらも、山間の間道「烏頭坂」にたどり着いた。ここで義弘の弟家久の子島津豊久が最後尾で主従わずか13人が身を挺して敵の攻撃を防ぐ「捨てガマリ」を使い義弘を逃がす。身代わりの豊久は、鎧兜が原形をとどめないほどの凄惨な死に様を見せた。継いで家老の長寿院盛淳も、同じく身代わりとなって命を散らす。

 しかしこれらの凄まじい戦を目の当たりにした家康は、本土で徹底抗戦する島津家に減知の命を下すことはできなかった。家康の島津に対する懸念は、自らの屍を西に向ける遺言となるが、その懸念は毛利家と共に明治維新によって現実のものとなる。

 

 多くの犠牲を重ねながら、関ヶ原の戦いを経て本領安堵に至った「薩摩太平記」とも言える物語。島津義弘は晩年身体が衰え、食事を摂ることも難儀になった。心配した家臣が「殿、戦でございます」と告げ鬨の声をかけると、義弘は目を見開き、考えられないほどの量の食事を平らげたという。

 戦に命をかけた生涯を過ごした「戦人」の宿痾

 

島津豊久の父家久(島津四兄弟の末弟)を主人公とする作品は、秀吉による九州征伐までの物語です。

 

 

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