小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

6 毛利は残った 近衛 龍春(2009)

【あらすじ】

 父が早世したため、偉大なる祖父毛利元就(日頼様)の後を継いだ毛利輝元。祖父は亡くなる前輝元に、叔父である吉川元春小早川隆景の2人によく従い、天下を望まず、焦らず熟慮すれば名を残す大将になると言い残した。その言いつけを守り29年、有能な2人の叔父に支えられ、本家120万石に加えて、一族の小早川家の領地もあり、徳川家康と匹敵する家格を有していた。

 

 2人の叔父が、そして秀吉が亡くなる。家康は満を持して天下人を狙い、石田三成は立ちはだかる。輝元は毛利家の外交責任者、安国寺恵瓊のお膳立てで西軍の旗頭の座に就くが、重臣吉川廣家は恵瓊に反発し、家康にこっそりと誼を通じる。輝元の預かり知らぬところで、どちらに転んでも毛利家に害は及ばないようにお膳立てがされていた。

 

 輝元は戦場から離れ大坂に残り、関ヶ原で指揮を執った吉川廣家は「弁当」を言い訳に動かない。主力が戦わないため西軍は敗れ、目論み通り毛利家の本領は安堵されたと思われた。

 

 しかし徳川家康は、西軍の総大将の毛利輝元を許さず、改易の意向を示す。約束が反故にされて青ざめる吉川廣家は、自らの褒賞を放棄して本家を残すように懇願するが、家康も謀臣の本多正信と策略を巡らし、焦らしながら毛利家を追い込んでいく。輝元も半分の減知は覚悟したが、下された沙汰は防長2カ国30万石のみで、何と4分の1の大減封。この減封では家臣を養うこともできず、お家の維持も見込めないが、それも家康と正信の思惑に入っていた。ここから輝元の新たな戦いが始まる。

 

 新たに安芸の国主となった福島正則などに、旧領で先取りした年貢を返還しなくてはならない。下げたくない頭を下げ、屈辱に遭っても我慢して、返済を先延ばしにしてもらう。家臣たちには家禄を5分の1にまで減封を命じ、その上年貢を元就時代の4公6民から、3公7民を超える年貢を求めざるを得ない。そんな事態に家臣も農民も不満は募るが、輝元は書を大量に記して自らの思いを伝え、それでも反乱が起きると厳しく罰した。

 

  毛利輝元ウィキペディアより)

 

 そこへ家康が将軍となった幕府は追い打ちをかける。江戸城などの天下普請の命が重なるが、断ることはできない。特産品の収穫にも力を入れて、家臣や農民が必死になって凌いで領地を検地すると、前回検地の29万8千石から53万9千石に増えたことが判明した。その結果を隠さず幕府に報告する輝元。驚く幕府側だが、他の大名の手前、その石高を正式に認める訳にはいかない。輝元の勝利だった。

 

 そして毛利は残った関ヶ原で毛利を苦しめた家康が、本多正信が、加藤清正が、小早川秀秋が亡くなった。東軍でも改易になった大名も多数ある中、毛利は残った。2代将軍秀忠から、家康が「中納言(輝元)は見事、苦難を乗り越えてこられた」と語った言葉を伝えられて満足感に浸り、1625年に73歳で没した。

 

 

【感想】

 近衛龍春は本作品を皮切りに「大名ザバイバルシリーズ」と言われた作品を上梓した。第2弾は島津四兄弟と豊臣・徳川との息詰まる戦いと交渉を描いた「島津は屈せず」。第3弾は親子二代で内紛を繰り替える南部家を、大地震が襲う「南部は沈まず」。ともにシリアスな内容で読み応えもあるが、次回からそれぞれ、(あえて) 別の小説で同じ趣旨の作品を取り上げる予定。本作品は第1弾として紹介するが、シリアスな2弾、3弾と雰囲気は異なる。

 

 *偉大なる一代目。祖父毛利元就を描いた作品です。

 

 第1章の題名は「呑気な二代目」。梟雄毛利元就が一代で築いた毛利家は、「三本の矢」政策で当主輝元が決断する機会がないまま、豊臣時代を謳歌できた。しかし2人の叔父が亡くなって関ヶ原を迎えた時、輝元は西軍の旗頭になりながら、有り金を全額かける勝負を「日和った」。

 そこを元就並に人間の裏表を知り尽くした徳川家康が翻弄する。力を振るう機会を巧みに封じ込みながら、毛利家を大減封まで持っていく。その意地悪いやり方は、大坂の陣で豊臣方に繰り返される。

 そこに日頼様(元就)が枕元に現われる。不甲斐ない状況に頭をこすりつけて謝罪する輝元だが、元就は「そなたは熟慮するば良き武将。やればできる男ぞ」と告げる。そこからはプライドを捨てて罵詈雑言も堂々と受け、頭を下げて済むならば何度でも頭を下げて、領国経営の為に邁進する。中には反抗するものもあり、断固たる処分も行なうが、改易しなくても倒れるだろうと見た本多正信の思惑を打ち破って、毛利家を見事立て直した。

 輝元が大往生した時の葬儀で、関ヶ原で対立した家康側の吉川廣家と三成方の毛利秀元が隣同士となって、輝元の生前を回想するシーンがいい。2人の対立が招いた毛利家の危機を、輝元は自らが先頭に立って領地経営を行うことで、脱することができた。

 

  

 *戦いのさなか、弁当を言い訳に戦闘を拒んだ吉川廣家(ウィキペディアより)

 

 参勤交代で関ヶ原を通るたびに、堂々を勝負していればと後悔し、そんな意地が大坂の陣で家臣を忍び込ませて、後に家臣の命を奪う悲劇を招いてしまう。領国経営こそ、輝元の本来の力を発揮する舞台だったようにも思えるが、戦場で力を発揮する舞台を逸してしまった後悔は輝元の一生に、そして子孫に受け継がれる。

 その後毛利家は、代々正月に重臣の代表が「今年は公儀を討ちましょうか」と問い、当主は「いや、まだその時期ではあるまい」と答える儀式を200年以上続ける。このようにして幕府への反抗心を心の奥底に押し込めながら、明治維新まで生き延びる。

 

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5 群雲,関ヶ原へ 岳 宏一郎(1998)

【あらすじ】

 関東に移封した徳川家康 (東軍) の抑えを期待して、会津90万石を与えた英邁な武将、蒲生氏郷が亡くなる。嫡子の秀行はまだ幼児でその任に耐えられず、秀吉は蒲生家を会津から移封を命じるが、会津の後任が問題になった。

 

 名が上がったのは、大老職で家康と対立する上杉景勝 (西軍)上杉景勝は家康が関東支配する中で対立する常陸佐竹義宣と仲が良く、家康は嫌な予感がよぎる。上杉が会津に移封されると、家康は背後の伊達政宗と好誼を結ぶことを考えるが、その政宗もまた信用できない。

 

 太閤秀吉が薨去すると、朝鮮出兵によって若者が徴兵され、物不足により物価が高騰していた不満から、人心は徳川家康へと移っていった。その頃豊臣家は「武新派」と「官吏派」に分かれて抗争があった。「武断派」の筆頭は朝鮮出兵の先鋒、加藤清正

 

 一方「官吏派」の筆頭 石田三成が博多へ行って畿内を留守にしている間、徳川家康本多正信に知恵を借りながら各大名に触手を伸ばしていく。本多正信は戦の経験が乏しいが、家康が若い時一向一揆で敵側に回り苦しめた経験があり、その後放浪して人間の機微を知り尽くしていた。

 

 対して三成は前田利家を動かして、秀吉の遺言を盾に家康を伏見に封じ込め、秀頼や諸侯を大坂に移す。しかし家康は禁を破り、諸侯との婚約を次々とまとめていく。三成は問罪使を派遣するが、家康は海千山千の対応でうまく潜り抜けた。そして家康は以前窮地を救った細川忠興を使い、前田利家にも手を打つ。利家は前田家の今後を考え、家康との対立を避ける判断をして、死を迎える。

 

 

 関ヶ原合戦図屏風(ウィキペディアより)

 

 利家が亡くなると石田三成を庇う楯が無くなり、加藤清正武断派が三成の命を狙う。三成は佐竹義宣の進言もあり、家康の懐に飛び込んで庇護を求めた。家康は三成の扱いに困ったが、本多正信は諸侯の憎悪を向ける「標的」として、今後利用価値があると考え、命は残した上で隠居させ、佐和山城に引き払わせた。

 

 邪魔者が大坂から消えた家康は、思いのままに辣腕を振るう。出兵続きで地元が疲弊しているのを見て、諸侯に帰国を認めて大坂が空白地帯となった隙に、家康を謀殺する噂が流れる。噂となった浅野長政細川忠興は寝耳に水だが、家康に臣従を誓い、前田は母まつを人質として徳川へ送り、味方を誓った。

 

  その間上杉景勝会津の地で、三成の盟友、直江兼続とともに新規召し抱えを積極的に行い、領内の城の修築を急がせて、領地一帯を城塞化しようとしていた。上杉の戦支度の目的を、家康は計りかねる。まずは詰問するための特使を派遣したが、これに対して上杉家は「直江状」と呼ばれる挑戦状を突き返す。

 

 家康は迷う。上杉征伐は罠だが、見込み通りに石田三成が挙兵するのか。三成が様子見したら、徳川は上杉相手に不毛な合戦を始めなければならない。

 だが、家康は立ち上がらざるを得なかった

 

 

【感想】

 司馬遼太郎の「関ケ原」を読んで、これを超える「関ケ原」の作品はないだろうと思ったが、本作品を読んで唸った。司馬史観とは異なる人物の造形。特に徳川家康は司馬作品で描かれるような、人の心を知り尽くし、戦国の戦場を誰よりも経験した「万能者」ではなく、神経質で悲観論者の性格も時に顔を覗かして、「どうする」と悩む様子を描いている。また家康と対立した北の上杉景勝、南の黒田如水も、司馬史観とは違った新たな役割を与えて、物語に厚みを加えている。

 

 

 関ヶ原の戦い時点の東西勢力図(歴史人より)

 

 東軍の家康に従った秀吉子飼いの武将たち。加藤清正福島正則細川忠興加藤嘉明黒田長政池田輝政浅野長政の七将と外様の伊達政宗最上義光、堀秀治、京極高次藤堂高虎ら。

 西軍石田三成に味方した、増田長盛長束正家大谷吉継小西行長らと、大国を領する毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家島津義久長宗我部盛親佐竹義宣などの乱世の雄。そして第三の道を描く鍋島直茂黒田如水、真田家や九鬼家。

 改めて武将の顔ぶれを並べると、石田三成小姓時代からの同僚秀吉に恭順するも服従しなかった武将からの覚えは悪いが、五奉行となってからの後輩や、秀吉に敗れて、教わる立場や新たな秩序を求める者らは、類いまれな能力に惹きつけらたことがわかる。そこを家康は全て織り込んで、三成の知らぬところでこっそりと「敵と味方」を作り上げていた。

 

   関ケ原の戦いは「天下分け目」と言われる。武将たちの様な思惑が何年もかけて錯綜し、戦の当日まで定まらなかったものが、わずか半日でほぐれ、決着を見る。負けた者は命が奪われ、所領が奪われていくが、勝った者でも天下人の座に着いた家康はともかく、功名を得て出世する者もいれば、その時から後悔する者もいて、こちらも悲喜こもごも。その後の大阪の陣で現実に向き会い、改易の憂き目に会うことにもなる。

 実際は【あらすじ】の後が本来の関ヶ原。これを作者は50人を超える「戦国オールスターズ」1人1人を詳細に描くが、その造形はまるで1体1体精密にフィギュアを造形するかのよう司馬遼太郎の作品が一筆書きで一気に描いた「一幅の絵」の印象を受けるのに対し、岳宏一郎は関ヶ原という舞台に、時間をかけて精密な「ジオラマ」を作り上げた。武将たち一人ひとりが東軍と西軍の間に挟まり、どのように去就を決するのか。非常に丁寧に描いている。

 

 

 その戦いは、明治維新まで続いていく。この後何作か、家康の敵になった、そして家康に与した武将たちの作品を、取り上げさせていただきます。 

(なお同じ作者で「群雲,賤ヶ岳へ」という作品もありますが、こちらは黒田官兵衛を主人公として、本作品と似て非なります)

 

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4 獅子の系譜(井伊直政) 津本 陽(2007)

【あらすじ】

 今川家は今川義元の治世となると、封土が伸張する。遠江国で三方ヶ原の北方を支配していた井伊直満今川義元に臣従したが、宿老小野政直の讒言によって義元に誅殺される。幼少の子直親家督を継ぐも、桶狭間今川義元が敗れると、周辺は混乱に陥った。直親は小野政直の子・道好の讒言により、今川氏真から今川を裏切った松平元康と内通した疑いを受ける。弁明のために駿府へ向かう途中で襲撃を受けて、29歳で殺害された。

 

 井伊家当主が二代続けて、同じように殺害され、残された嫡子の井伊直政はわずか2歳。周囲から狙われる中、早く一人前になるために、寺で学問や礼儀作法などを必死に修得する。直政は18歳の時に家督を継いで徳川家康に臣従すると、家康に才気を認められ、武田勢との戦いで戦功を上げていく。そして武田家滅亡のあと信長に上洛を求められた家康に付き添うが、そこで本能寺の変がおきる。

 

 家康最大の危機「神君の伊賀越え」を、直政は傍らで守り抜き、無事帰国した。中原で秀吉が勢力を伸ばすのを尻目に、家康は甲州や信州を支配下におき、120万石の領土を保持する大名に成長した。同じく100万石を持つ織田信雄、そして関東の覇者北条氏政と手を携え、秀吉も無視できない対抗勢力を作りあげた。

 

 秀吉と対決する可能性も考え、家康は旧武田家の有能な武士団を召し抱え、徳川軍の大きな戦力にしようとしていた。勇戦の武将が数多くいる中、家康はその役目を、若いが我武者羅な直政に命じる。武田家家臣を直政に集め、武田家でも特別だった「赤備え」の軍備で統一し、強力な軍を築くように求めた。

 

 大事な使命を受けた直政は、ますます思い詰めた行動を取る。自らを厳しく律し、家臣たちにも厳しい鍛錬を課すが、その厳しさは家臣が他の武将に移籍を希望するほどだった。「赤備え」の初陣となった小牧長久手の戦いでは、周囲の制止を振り切って猪武者のように先頭に立って敵に向かって、池田恒興軍を壊滅させる。

 

  井伊直政ウィキペディアより)

 

 その後家康と秀吉が和睦すると、家康上洛の際に人質として浜松によこした、秀吉の母の大政所と妹の見張りを命じられる。他の者が人質として厳しく対応したのに対し、直政は礼の適った所作で丁寧に対応し、大政所を感動させた。その意向が秀吉にも伝わると、後に秀吉から徳川家臣で一番の厚遇され、武だけではない一面を周囲に知らしめる。

 

 秀吉が亡くなった後の関ヶ原の戦いでは、直政は家康の子忠吉を連れて、斥候と偽って先鋒の福島正則を差し置いて戦いの火蓋を切る。激戦の中、直政も獅子奮迅の活躍をするが、戦いの趨勢が定まった後、島津勢の退却に立ち向かい、鉄砲傷を負ってしまう。関ヶ原の戦いの後の戦後処理に尽力したが、もう戦いの場に出ることができないことを実感したまま、2年後に鉄砲傷が元で42歳の若さで亡くなる。

 

 

【感想】

 徳川四天王の1人と言われた井伊直政だが、ほかの3人に比べて極端に若く、また譜代ではなく直政の代で初めて家臣となったことで性格が異なる。それでも家康から厚遇を受ける姿は、美男子と呼ばれた容貌から、家康の寵童と周囲からも疑われたという。

 但し作品では触れられていないが、井伊直政の祖父、そして父の悲惨な最期は、家康の祖父清康と父広忠が相次いで家臣に殺害された運命と重なり、その後の直政の苦労は、人質として暮した幼年時代の家康の苦労と同じ軌跡を描いている。そして20歳で自害した嫡子徳川信康の生まれ変わりと思ったと感じてならない。なお信康の祖母(築山殿の実母)は井伊家の出身でもあり、直政に愛妻の築山殿そして清康の面影が残っていた可能性もある。様々な点で、家康は直政に感情移入する要素がある。

 

  

 *「どうする家康」で井伊直政を演じた板垣李光人。こちらは家康への複雑な思いを見事に演じ分けました(NHK)。

 

 そして直政は家康の期待に応える人材だった。武勇のみの家中にあって学問や礼儀作法も学び、その上で戦場となると先頭に立ち、家康のためならば命を惜しまず仕える。後に裏切る「宿老」の石川数正に対して、天下人秀吉の面前にも関わらず「先祖より仕えた主君に背いて殿下に従う臆病者と同席すること、固くお断り申す」とまで言った武骨者でもある。

 そんな自分にも家臣にも厳しい直政でも、可笑しなエピソードがある。戦場で芋汁を振る舞われた直政は口が合わず、当時貴重だった醤油大久保忠世に求め、周囲の他の武将から非難されたという。直政はこのことでますます自らに厳しくなる。

 若くして家康から寵愛された直政は、周囲から認められるために60キロもある鎧兜を着て、戦場でいつも傷だらけになって奮迅した。はるかに軽い鎧兜で見事な戦いを見せながら生涯傷1つ負わなかった本多忠勝とよく比べられるが、直政にはそれだけの思いがあったのだろう。

 

   *60キロあった? 復元「鉄朱塗五枚胴具足」眞玄堂HPより

 

 なお直政の父が亡くなり、その従兄弟直盛が一時家督を継いだが、その従兄弟も桶狭間の戦いで戦死した。直政が2歳であったために、直盛の娘の次郎法師直虎と名乗って当主となったという話があり、大河ドラマにもなったが、真偽は定かでない様子。

 祖父、父と非業の死を遂げた「獅子の系譜」は、同じ思いを持つ家康に忠誠を尽くすことで、徳川家臣団で1番の石高を封じられた。大老職を担う家柄となり、子孫も直政の思いを受け継いで、徳川幕府を最後まで支えていく。

 

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