小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

4-2 竜は動かず 奥羽越列藩同盟顚末 ② 上田 秀人(2016)

【あらすじ】

 玉虫左太夫が視察に向った京都は、争乱の渦の中にあった。勤王派は遊郭などで乱痴気騒ぎを起こして、国事に奔走する姿にはとても見えない。その中で長州藩士では第一等と評価の高い久坂玄瑞会うも、久坂は頑迷な攘夷論者で、アメリカへの渡航経験のある玉虫には最初から喧嘩腰。そして思いの底には関ヶ原の戦いで減封された恨みが忘れられず、玉虫と交じり合うことはなかった。

 

 対して会津藩は同じ奥州で話は通じるも、京都守護職に「押しつけられた」思いは拭えない。狂奔する浪士を相手に、更に過激な新選組を抱えて苦慮している。しかし間もなくその苦労も幾分軽くなる、と会津藩士はいう。坂本龍馬はその話を聞いて、薩摩が会津と組んで過激な長州を京都から追いやるクーデターが水面下で進行していることを知る。軽挙妄動な長州藩唯我独尊な薩摩藩、そして頑迷固陋な会津藩

 

 仙台に戻り京の状況を報告する玉虫。しかし藩の上役たちにとって、勤皇運動は対岸の火事で、幕府の権威が揺らぐことなど露とも思わない。「外国かぶれ」でもある玉虫は邪魔者でしかなく、気仙沼へ塩田の仕事に追いやってしまう。幕府への危機感を共有するのは大槻磐渓のみで、長州征伐に乗り出した幕府の実情を探るために、再び玉虫を京に探索に向かわせる。

 

 将軍家茂と孝明天皇が相次いで亡くなり一橋慶喜が15代将軍に就任する。海軍奉行の勝海舟と会った玉虫は、自分が坂本と勝との繋がりから新選組から命を狙われていること、そして玉虫の役割は京ではなく仙台藩を守ることと諭される。新選組の目から逃れて玉虫は仙台に帰藩する。

 

 長州征伐の幕府敗戦から大政奉還坂本龍馬の暗殺。混迷の中で仙台藩は、創藩以来争いが絶えない家臣団が対立して、方針を決断できない。隣国の会津藩に同情する仙台藩は、玉虫が藩主松平容保から官軍に恭順する方針を確認して、会津と朝廷の仲介を担おうとする。

 

 しかし官軍は頑迷だった。奥州鎮撫総督府の参謀として派遣された世良修蔵は、会津は藩主の首と城の明け渡しを通告し、仙台城下でも官軍の威を傘に横暴を繰り返す。奥州諸藩はその行動を見て官軍に叛旗を翻し、奥羽越列藩同盟が形成された。領土は会わせて240万石。

 

  世良修蔵ウィキペディア

 

 しかし一時の勢いで決めた同盟も、軍備で圧倒的に差がある官軍に対して戦うと、次々と脱落していく。また仙台藩も、いざ戦いとなっても腰が定まらない。まず秋田藩新庄藩が家中の騒動で同盟から離脱し、中心的存在でもあった米沢藩上杉家も、官軍から本領安堵の個別交渉を受け脱落する。そのため仙台藩は、同盟の盟主として官軍に「生贄」となった。

 

 ところが会津藩の思いかけない抵抗により、官軍は仙台藩を生贄から味方に取り込む戦略に変更して、藩の実権は官軍派が掌握した。そして奥羽越列藩同盟を主導して抗戦を主張していた玉虫は牢に入れられ、切腹を命じられることになる

 



 

【感想】

 松平春嶽に対する作者・上田秀人の見方は厳しい。幕府の命運は厳しいと断じるも、当時貧乏くじと思われた京都守護職を、京に近い越前や家格の高い尾張紀州ではなく、京から遠い会津藩に押しつけたとしている。

 長州藩関ヶ原の戦後処理で幕府に恨みを抱くが、減封されなかった薩摩藩も「宝暦の治水工事」で、そして西国の諸大名は、参勤交代のたびに幕府への不満が募っていくという考えは慧眼。奥州諸藩は比較的江戸に近いが、西国は海を渡り京都を通過し、大井川や箱根を越えなければならず、また参勤の時期が重なるため順番や宿泊場所などで競争になり、諸藩からすると神経をすり減らす作業だったという。

 勝海舟坂本龍馬などの「開明派」と親交があった玉虫左太夫だが、結局は仙台藩の中から脱することはできず、決断できない家臣団を尻目に、奥羽越列藩同盟の中心人物となっていく。ところが諸藩は、権威を盾にするも実行せずに、戊辰戦争でいざ官軍に対峙しようとしても、戦う姿勢を持てない。「竜」は動かない

 三河以来の旗本である小栗忠順は、徳川家への忠節一途で迷うことはない。対して微禄の御家人だった勝海舟は幕府を「立派な葬儀に出す」ことに頭を切り替えている。榎本武揚大鳥圭介は元々幕臣でないため、最後は降伏してその後明治政府に仕えることになる。坂本龍馬は早くから脱藩して自由な行動を確保し、福沢諭吉封建制度を親の仇と断じて、学問による自立を生涯の目標とした。

 玉虫もその知識と経験から、本来は自由な立場で、開明期の明治日本で活躍すべき人物だった。しかし福沢のように封建制度を「親の仇」と断じることはできず、勝海舟のように「立派な葬儀に出す」転換もできず、一度は出奔したが坂本龍馬のように自由な立場を得ようとすることもできなかった。

 

奥羽越列藩同盟の要の1つ、越後長岡藩の物語です。

 

 太古から朝廷から「蝦夷」として軽視されてきた奥州。坂上田村麻呂源頼朝、そして豊臣秀吉によって中央から征伐される立場を繰り返してきた奥州は、幕末でもその運命は変わらなかった。

 それにしても官軍から派遣される軍監は、越後の長岡藩も、そして仙台藩でもなぜ「武士道」とは無縁の人物が選ばれるのだろうか。江戸攻撃の前は薩摩が戦火を開く口実作りに、江戸鎮撫役の庄内藩士を挑発し続けたという。そんなところから勤王倒幕運動の「底の浅さ」を感じるのは、考えすぎだろうか。

 

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