小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

2-2 勝海舟 ② 子母沢 寛(1941~1946)

  

*1974年の大河ドラマ勝海舟を演じた渡哲也。途中病気降板で松方弘樹に変更しましたが、容貌は勝海舟を彷彿とされます。

 

【あらすじ】

 長州征伐の戦況は思わしくなく、勝海舟一橋慶喜に頼まれて長州との停戦をまとめたが、のちに幕府は面子を考えて勅命を仰ぐ形での停戦とし、勝は梯子を外された形になった。勝は討幕派に近いことから幕閣内で孤立し、子の小鹿は留学生の選から漏れてしまう。また次男四郎は元々病弱で、江戸に戻る前に亡くなっていた。勝は日本に見切りをつけ、小鹿を私費でアメリカに留学させることにする。

 

 幕府では小栗上野介がフランスに接近するが、小栗は徳川家一筋で日本の将来まで見えていない。一方で英国は薩長に接近していて、このままでは日本は英仏の食い物にされてしまう。この時期一橋慶喜に将軍宣下され、同じ月に孝明天皇が亡くなり、巷では「えいじゃないか」が流行る。混迷が極まる中、討幕派は土佐藩薩摩藩大政奉還の建議を行なうと、将軍慶喜はその訴えを呑んで、勝は英断に感動する。だが同じ日、薩摩と長州に討幕の密勅が下っていた。その裏で大政奉還の影の立役者、坂本龍馬中岡慎太郎は刺客に惨死される。

 

 鳥羽伏見の戦いで、慶喜は戦場を見捨て大坂から逃亡し、勝は不満を隠せない。ところが慶喜は勝の話は聞かず、西郷、大久保と話をまとめるように頼むと、自らは恭順してしまう。フランスは勝に戦うことを勧めるが、日本を思う勝は「天子様に背くことはできない」。勝は西郷が江戸に来る前に幕府の意を伝えるべきと考え、その使者として山岡鉄舟を使う。鉄舟は「徳川がどうのこうの、薩長がどうのこうのという時期は過ぎている」と判断していた。

 

 西郷も勝の気持ちを理解するが、勝はその上で切り札を打った。江戸の市民を一人残らず房州へ避難させ、江戸を灰にするために、勝は無頼の徒、遊び人、博徒、鳶、駕籠昇き、火消人足などに渡りをつける。そんな裏工作をした上で、西郷は対面する。江戸城を引き渡すかと聞く西郷に対して、勝はもとよりと答えた。西郷は頷いて、「勝先生、ほんに、よかことでごわした」といった。これで3月15日の総進撃は中止になった。

 

  

 *勝と西郷による、江戸城無血開城の会談(ウィキペディア

 

 海軍副総裁の榎本釜次郎幕府軍艦七隻を率いて脱走する。勝は昔の誼もあり榎本に会って軍艦を返してもらい、官軍との対立を回避しようとするが、上野の彰義隊山岡鉄舟の説得にも関わらず軍隊を解散しない。そのため官軍でも強硬論が沸き起こり、薩摩から長州の大村益次郎に実権が移る。大村は敢えて勝との対話を避けて、彰義隊退治を進めて行く。勝は上野がやられると、徳川家は100万石に減封の予定が70万石まで下げられるだろうと考え、実際にそうなった。

 

 勝は官軍の、そして徳川家の呼び出しにも病気と称して顔を出さなくなった。やがて、江戸は東京と改称され、徳川の家士が駿府へ移ることになる。混乱が予想されたが、勝の目は未来を向いていた。

 

【感想】

 長州征伐の失敗から、幕府の命運は転げ落ちていく。その将来が嫌というほど見通せる勝海舟。しかし幕閣では小栗上野介忠順を中心に徳川家大事を掲げて、そのためには日本を売ろうとしても構わないと考える一派もいる。これは政策ではなくイデオロギーの違いであり、永遠に歩み寄ることはできない。

 軍医総長となった松本良順から「幕府の病には勝安房守という名医がいるのだが、とんと病人に嫌われている」と言われたのに対し、勝は「ただ静かに立派に死なせてやりたいと思っている。それが三百年の恩顧を蒙るものの奉公だ」と答えている。41石の小禄の家に生れ、本来は旗本未満の御家人で、将軍への御目見得が許されない家柄だった勝が、運命の悪戯で徳川家を見取る役割に立たされる。

 

 

徳川慶喜は最後の将軍として大政奉還を決断しましたが、太平洋戦争で慶喜の役割を担ったのは・・・・(千代田区観光協会

 

 司馬遼太郎は、勝海舟という存在が幕末にあったことで日本は救われたとし、その役割は妖精のようだと語らせた。まさに「天使のように大胆に、悪魔のように細心に」混乱した世の中を渡り歩いて、幕府側、倒幕側それぞれに重要な存在感を与えている。

 江戸城明け渡しの会談でも、勝と西郷の阿吽の呼吸がクローズアップされているが、その裏で江戸を一瞬にして灰にする手立てをしているとは知らなかった。これは一見山師にも見える勝海舟が、「坂本龍馬のように大胆に、大村益次郎のように細心に」物事を成し遂げる性格が垣間見られる。このように本作品を読むと、司馬遼太郎の多くの作品に多大な影響を与えたことが透けて見える。

 

 本作品の新聞連載が終ったのは終戦の翌年にあたる1946年12月。作品は800万石を有していたと言われる徳川家が、駿府70万石に押し込められて移住するところで終る。しかし勝海舟は、徳川が先に版籍奉還して廃藩置県をおこなうべきと説いて、徳川家の将来を楽観、もしくは達観している。そんな心境を軽妙な江戸弁を随所に織り交ぜて、描いている。

 連載の終盤はGHQによる日本支配下の中で、陸海軍解体、戦犯処分、公職追放、そして財閥解体などが進められた。時の総理大臣吉田茂は、戦前は外務省で非主流の道を歩み、戦時中は「政府内野党」として憲兵隊にも拘束された経験をもつ。そんな人物が「大日本帝国」の葬儀委員長となり、新しい国家を立ち上げる役目を担った。

 作者子母澤寛は、この時期にどのような思いで連載を続け、そして連載を終えたのだろうか

 

   

 *吉田茂勝海舟の生涯と重なると感じるのは、気のせいでしょうか(ウィキペディア

 

 

 

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