小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

3-1 新三河物語 ① 宮城谷 昌光(2008)

【あらすじ:上巻】

 今川義元は上洛の途につくと、人質の松平元康を先鋒として、織田家の猛将佐久間大学が守る丸根砦を攻撃させた。常に厳しい戦場を任されるが、家臣たちは活躍すれば元康が三河に戻ると信じて、戦いの中で命を削っていく。その中の1人、大久保一族を率いる大久保忠俊は、元康の祖父で英傑の松平清康から松平家に仕える。当時62歳、幾多の戦場を踏みながらも大きな負傷もせず、いくさの達人と呼ばれている。

 

 猛将佐久間大学の疲れを待つ老練さを持った元康は、若いながらも祖父清康を彷彿とさせる采配振り。その傍らで敵を観察し「佐久間の気は、老いたり」と感じ取る達人、大久保忠俊。忠俊の甥で幾多の戦場で手柄を立てている大久保忠世忠佐の兄弟は、そんな伯父の忠俊に憧れて付き従っていた。忠世の親友、本多正信は膝を怪我するが、松平勢は丸根砦を占領することに成功する。

 

 ところが本隊の今川義元は、休憩中の桶狭間山で信長の奇襲に遭い、命を落としていた。その報を聞いた元康は、太田城の守護を放棄して岡崎城に入り、自立への一歩を踏み出す。しかし徳川家康と名を改めた後、三河は混乱の渦に巻き込まれる。家臣が「不入の特権」がある寺内町に逃げ込んだ悪徒を成敗したが、一向門徒宗は特権が迫害されたことを許さず、ついには全面戦争に至ってしまう。

 

 家康の家臣の中では、一向宗から宗旨替えをして家康に従う者と、信仰に従い家康を「仏敵」として刃を向けるものに分かれる。一族の中でも敵味方が入り乱れ、膝を痛めた本多正信も、忠世の説得にも耳を貸さず門徒側に走ってしまった。

 

  大久保忠世ウィキペディアより)

 

 一向一揆の勢いが激しくなる中、大久保一族は出家して常源と名乗った忠俊を中心に、上和田砦で防御線を張った。そこに桶狭間の戦いの時生まれた幼い忠世の弟、平助が地面に「南無妙法蓮華経」と漢字で書いて周囲を驚かせる。常源はそれを日蓮のご加護と信じて、一向一揆 (浄土真宗) に対抗する。しかし数に勝る一揆衆の攻撃は果てしなく、常源らは次第に追い詰められる。味方が50騎になるまで追い詰められて絶体絶命の中、急を聞いた家康が単身駆けつけて形勢と一転させた。そのうち一揆衆は、号令は出すが戦場には出ない坊主衆への不信感が生まれ、徐々に終息していく。

 

 一揆衆は元々家康の家臣団であり、反逆を水に流す条件で和議を要求してきた。勝手な要求だが、間に立った常源(大久保忠俊)の意向も汲んで和睦に応じる。その常源も嫡子が眼を矢で射貫かれ重傷を負い、戦場に立てない状態になった。そこで一族の頭目を自らの子ではなく、戦場で実績を上げている甥の忠世に任命する

 

 そんな大久保一族に家康は「なんじどもの恩、七代、忘れぬ」との言葉を告げる。

 

【感想】

 古代中国を舞台に、数々の小説を描いてきた宮城谷昌光。本作品では出身地の三河から「統一国家」を、そして現代日本の原型を作った徳川家臣団の盛衰を、大久保彦左衛門の「三河物語」をモチーフに描いた。前作の「風は山河より」は長篠の戦いをピークに、三河の菅沼氏という、歴史に埋もれがちな一族の70年史に迫った「コア」な物語。対して本作品は、聞いたことがある人物が数多く登場して読みやすく、ちょうど先に取り上げた徳川四天王「以外」を中心に描いている。

 

宮城谷昌光が日本を舞台にした最初の歴史小説。「山河」は「三河」と重ねているそうです。

 

 司馬遼太郎に認められて世に出た経緯を持つ宮城谷昌光は、本作品でも三河人として、独特の「宮城谷史観」を所々に披露している。家康の特異性を「三河という農業国に生れて、尾張という商業地の風にふれ、駿河の京風文化をのぞいた元康に、渾大(こんだい)の人格が育とうとしていた(90頁)」と、この作家らしい視点と表現で論じている。

 一向一揆に対しての家康の気持ちを「絶望的な忍耐をつづけてきた者に、わずかでもむくいてやることのできる主君でありたい」とし、「人の貧困につけこんで利益を得る門徒のありかたは、言語道断(184頁)」と断じている。

 

 本多正信を評するに「農業を重視し商業を軽視する三河人の根元の思想であり、その点、正信は異類であった(128頁)」としながら、大久保忠世は親友の正信を古代中国の周の名宰相、管仲を模していると推測するのも、宮城谷昌光らしい。

 大久保党の総帥である大久保忠俊は、家康の祖父と父を、他の氏族よりも高い貢献度で支えてきた自負がある。ところが大久保一族は数々の戦場で活躍する一方で、これでもか、これでもか、と犠牲を重ねていく。

 「まさか、このやりきれなさを、弟の子である平助が、のちに代弁してくれるとは常源はおもわなかったであろう(282頁)」。その平助(大久保彦左衛門)は、学問好きの早熟として上巻では登場しているが、その後徳川家の盛運とともに世に出て、無情なしがらみに巻き込まれていく。

 

 司馬遼太郎は「俯瞰」という表現で対象物を捉え、時に患部を切開することによって、自分なりの史観を生々しく取り上げた。対して宮城谷昌光は、盤面を上から、横から、そして斜めから見据え、自分なりの定石に基づいて棋譜を練り上げ、史観を披露している。

 客観的な姿勢を保持しているように見えるが、折々で、愛情が行間から溢れるときがある。

 

*「新三河物語」関係地図(本書より)

 

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