小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

10 鎌倉擾乱 高橋 直樹 (1996)

   *Amazonより



 鎌倉時代を紐解く中で、権力を握りながらも非業の死を遂げた3者に焦点を当てて描いた中編集。

 平安時代までの皇族や貴族による権謀による権力闘争が、鎌倉時代になると武家が政権を握ったがために、権力闘争も直截的になっている。そして共通するのは山頂から眺めた鎌倉の街並み。武家の都でありながら、三方を山に囲まれた余りに狭い土地に、武士たちの野望と陰謀が蠢いている

 それにしても初めての武家政権であった鎌倉時代とは、なんと争乱が多かったことか。改めて感じる。

 

1   非命に斃る 

 主人公は鎌倉幕府2代目将軍、源頼家。父頼朝が将軍としての役割と心構えを教えないまま亡くなってしまい、子の頼家は源氏の嫡流というプライドから政治を独断専行してしまう。そのため不満は侍所別当梶原景時に集中し、御家人たちから連名で梶原景時宛の弾劾状が提出される。

 頼家を守るために誹謗を一身に受けた梶原景時だが、頼家はそのことがわからない。そして頼家に糺された景時は出奔して、逃亡の途中で捕まり殺害されてしまう。

 頼家はその後乳母であった比企一族の力を借りて専断を繰り返すが、御家人たちの人心は「鎌倉殿二代目」から離れてしまう。乳母の比企一族とは疎遠だった北条政子は、我が子ながら頼家の性格を捉えるこどはできず、ついには幼少の頃から気心が知れている次男の実朝に将軍職を譲るように画策する。北条時政を筆頭とする北条家の意向より頼家は罠に嵌り、病気を理由に将軍職を譲位し、修善寺に幽閉されて最後は殺害されてしまう。 

 父頼朝のような苦難を味わうことなく「生まれながらの将軍」として育ったがために、しっかりと教育する者もなかった。そのため御家人たちの感情を理解することができず独断専行を繰り返した。後に梶原景時の「思い」を察するが、時すでに遅し。その時は母方の有力御家人、北条氏を始め御家人たちからは 「邪魔もの」としての存在となり、消されてしまう。

 偉大なる父頼朝の長男として皆から祝福されて誕生した頼家だが、死後も頼家を慕うのは下僕1人。頼家の遺髪を持って、頼家が見たかった大雪の景色を見せるために下僕の故郷に戻る。

 源義経と争って讒言したとされて評判の悪い梶原景時が、名誉回復された描き方をされている(「鎌倉殿の13人」もそうでした)。

   源頼家ウィキペディアより)

 

 

2 異形の寵児

 家族から、そして周囲からも軽んじられて、陰気で得体の知れぬ印象から、「むじな丸」と呼ばれていた平頼綱。そんな性格から、時の権力者安達泰盛は反抗することはなかろうと安心して、北条得宗家の御内人として取り入れられる。国難である元寇を防いで絶対的確力を持った執権時宗に仕え、頼綱は緊張しながらも時宗が感心する建策を行い抜擢される。時宗の子貞時の乳母が乳が出なくなった時は、乳が出る  「道具」として自分の妻を差し出して、貞時の養父の立場となった。

 執権時宗元寇の対応で自分の命も燃え尽きたかのように、若くして急死する。その後を頼綱は、執権職を継いだ貞時の養父の立場で徐々に権力を掌握していく。邪魔になるものは諫言と武力で排除していき、ついには恩人である安達泰盛をも追い落とし、内管領として権力の頂点に辿り着く

 子供の頃から愛情を受けずに育った頼綱は、御家人はもとより家族も信用せずに冷徹な恐怖政治を敷く。そして頼綱は疑心暗鬼となり、長男も自分に反抗すると信じ込んで、長男もろとも反対勢力を殲滅しようと試みる。ところが長男は父を信じようとしていた。その心が伝わらなかったために、ついに執権貞時が動いて頼綱を取り囲む。

 家族も部下も、そして執権でさえも「道具」としてしか見えなかった頼綱。本当の愛情に接したあとは、自分自身を抹殺するしか道はなかった。                                            

 

 大河ドラマ時宗」では、心に闇を持つもまだ「成り上がり前」の平頼綱を、北村一輝が印象的に演じました(NHK)。

 

3 北条高時の最期   

 貞時の子である鎌倉幕府最期の得宗北条高時得宗とは北条家一門の「氏の長者」。執権職は一族に渡ることもあるが、時頼・時宗以来、執権を越える存在として権力の頂点にいた。

 但し高時は得宗とは名ばかりで、実権は内管領長崎高資とその父円喜に握られていた。病気となり若くして執権職を弟の泰家に譲ろうとしたが、長崎父子に反対されて自分の思うようにはできない。そして寄合で得宗たる高時が裁決した内容が、その後長崎親子の良いように変えられていたこと知る。長崎父子の思い通りにさせないように試みる高時。得宗内管領の確執は続き幕政は混乱が続いたが、長崎高資は辞職を願い出て高時は折れてしまう。高資を謀殺しようと策略を巡らすも失敗に終わる。

 その頃朝廷では後醍醐天皇が即位し、鎌倉幕府から政権を奪取しようと試みる。後醍醐天皇が兵を挙げた正中の変では、幕府が退けて天皇隠岐へ還流するが、次第に御家人の統率も効かなくなり、高時は鎌倉幕府の行く末に不安がよぎり始める。それでも高時は実権を取り上げられて対策を振るうことが出来ず、田楽などで自らを癒すしかない日々を過ごす。

 その後元弘の乱が起きる。新田義貞軍は鎌倉を攻め、高時以下北条一族は敗北し、近習たちが高時の目の前で次々と命を奪われる。高時は得宗として、北条一族の最期を見届ける役目を担う。

 そして最後に高時は「ひとつの趣向」を思いつく。この趣向が本作品の、そして武士同士の権力闘争を繰り返した鎌倉時代の最後にふさわしい。

 

 *北条家最後の「得宗北条高時。最後の「執権」ではないと改めて知りました(ウィキペディアより)