小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

17 刀伊入寇 藤原隆家の闘い 葉室 麟 (2011)

【あらすじ】

 藤原北家、氏の長者である藤原道隆の第四子として生まれた藤原隆家。父の名声もあり三位中将として公卿にまで列するも、天下の「さがな者」(荒くれ者)としても名高い。気に入らなければ例え皇族相手だろうが騒ぎを起こし、自分に相応しい「強敵」を求めていた。そんな隆家を陰陽師安倍晴明は、隆家は「とい」という強敵と戦い、日本にとって大事な存在になると予言する。

 

 父の道隆が没した後、氏の長者は嫡子の伊周ではなく、道隆の弟の道兼から更に弟の藤原道長に移る。伊周と弟の隆家は、叔父道長は小心者と見て面白くない。従者を焚きつけて道長の行列を襲わせたり、姉の中宮定子の女房清少納言とも激しく争う。

 

 更に隆家は勢いで花山法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射貫くまで暴れまわる。さすがにこれは無下にはできず、隆家は出雲権守に、藤原伊周大宰権帥に左遷された。

 

 京から離れると不思議な人物と出会う。遠く朝鮮半島を支配する高麗の、更に東方にある滅亡した渤海国の遺臣である裴乙黒とその妹の瑠璃。隆家は瑠璃と契りを結ぶことによって隆家の高貴な、そして破軍の星を持つ勇者を産み、その子は20年後、女真族を率いて日本を攻め寄せると予言する。

 

 時は流れ、藤原道長の権勢は全盛を極めていた。隆家は未だに強敵との戦いを求め、刀伊が襲来すると予想される太宰府への赴任を、眼病の治療と偽って道長に要望。道長は厄介払いできると思い承知する。

 

  藤原隆家ウィキペディアより)

 

 太宰権帥を任じられて5年後の1019年、ついに刀伊が侵攻してくる。率いるのは瑠璃の子、鳥雅(うや)。高麗で残虐な侵略を繰り返していた刀伊は、賊船約50隻、3,000人を乗せた船団を組んで突如として対馬に、そして壱岐に来襲し、島の各地で殺人や放火、略奪を繰り返す。その後刀伊軍は本土の博多を襲った。博多で隆家は刀伊軍を待ち構えるが、その中に鳥雅がいた。

 

 向かい合う2人だが、その間に日本軍は刀伊の船を炎上させようと企んでいた。船を焼かれては致命的である刀伊軍は、日本軍の意図を察知し、退却を余儀なくされる。刀伊勢は移動して肥前を襲撃するが、隆家はこちらも予想して撃退し、高麗に追い返すことに成功した。隆家は追撃を許すも、高麗の領土までは侵入しないように指示する。高麗も自国を戦場としない判断をした日本の対応を了とし、拉致された一部である数百の日本人を解放して日本に帰還させた。

 

 日本の危機を防いだ藤原隆家。しかし朝廷は隆家らの私闘と扱って恩賞に値しないと判断する。だが隆家を評価する藤原実資藤原道長の意向を確認し、部下への恩賞を認めさせる。しかし道長は、隆家が戦ったのは恩賞のためではないことを、長い付き合いから理解していた。

 

刀伊の入寇

 926年に契丹によって渤海が滅ぼされた。当時の東北部にいた珠鞠・女真系の人々は豹皮などの産品を渤海を通じて宋などに輸出していた。さらに991年には契丹鴨緑江流域に三柵を設置し、女真から宋などの西方への交易ルートが閉ざされてしまった。

 女真による高麗沿岸部への襲撃が活発化するのはこの頃からである (ウィキペディアより一部抜粋)        

  毎日新聞より


 

【感想】   

 刀伊の入寇と呼ばれる事件。中国の歴史に大きな影響を与える女真族を中心とする「東夷(とうい)→刀伊(とい)」の集団が、現在の北朝鮮の北方にある地帯から半島伝いに日本に侵攻してきた、現代でも色々考えさせる事件である。

 その事件に対応した藤原隆家枕草子などで清少納言との応酬が描かれ、花山法皇、そして「望月の欠けない」権力者、藤原道長に対しても遠慮容赦なく自我を通す性格で、高い官位を得ながらも「乱を好む」人物と描写されている。先に取り上げた「この世をば」と時代はカブっているが、道長の反対側から描いた作品として合わせて読むと興味深い。

 私は、隆家は偶然(史書では「眼病の治療」)刀伊の入寇事件の際に太宰権帥として居会わせたと思っているが、本作品では刀伊の入寇を「予測して」太宰府に赴任したとしている。この解釈も当時どれだけ刀伊の情報を得ることができたのかを考えると不自然だが、若い頃からの乱暴狼籍の逸話を交えながら描かれると真実味が増して、また物語として面白い。

  もう1つ誤解があった。藤原隆家摂関家嫡流に生まれ、高位の官位を得ていたこと(前回投稿の系図参照)。これだけの凶暴な敵を逃げずに退治した隆家が「貴族の中の貴族」とも言える家柄だったとは当初は想像ができず、平将門と戦った藤原秀郷や反乱を起こした藤原純友のように、地方武士の勢力だと思い込んでいた。実際に対馬の国守は、太宰府に現状を報告するという理由で戦わずして逃亡しているが、争いや流血を嫌う当時の貴族社会では、それが普通の行動だろう。対して隆家が太宰権帥に赴任して政道を行うと、その見事な差配振りに地元の武土たちは皆隆家に心服したという。そんなタイミングでこの事件は起きた。

 刀伊を撃退した同年暮れに隆家は大宰権帥を辞して帰京。帰京後は内裏出仕を控えてたために恩賞は受けなかった。年を重ねたためか、もしくは「宿命の戦い」が終わったためか、その後武勇伝は聞かれなくなる。一方で1037年再度大宰権帥に任ぜられ1042年までこれを務め、1044年に死去する。

 「さがな者」(荒くれ者)としての描写が多いが、新古今和歌集などの和歌集にも選ばれている文人でもある。「わしがいま在るのは、すべて刀伊と戦うためであるかもしれぬ」とつぶやいた隆家は、何百年に1度という日本の危機に居合わせる運命となり、おそらくこの人以外ではできなかったことを成し遂げた。

 人は何をなすために生を受けたのかを考えさせられる人物である。

 

 蛇足。来年(2024年)の大河ドラマ「光る君へ」。この藤原隆家永山絢斗が演じることを聞き、ドンピシャと期待しましたが・・・・ 残念!