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【あらすじ】
1880年岩手県盛岡市に旧盛岡藩士の長男として生まれた米内光政は、岩手県尋常中学校から海軍兵学校に入校した。1つのことにこだわる勉強法をしていたためか成績も振るわず、周囲から「グズ政」と言われる。しかし次第に同期から有望な1人として数えられた。1930年「あがりのポスト」鎮海要港部司令官に就く。しかし上司らが米内は現役に残すべきと東郷平八郎にかけ合い、米内は予備役編入を免れた。
1932年第三艦隊司令長官に任命された時、米内は病を押して赴任を決意するも、海軍首脳は米内を将来に温存するために、療養を優先させて回復後復帰する道筋をつける。艦隊が揚子江を航行中に暗礁に乗り上げてしまい、米内は進退伺いの電報を打つよう命じるが、幕僚の保科善四郎は独断で握りつぶした。
佐世保鎮守府司令長官、第二艦隊司令長官。横須賀鎮守府司令長官と歴任。1936年2・26六事件発生の際、米内は待合茶屋に宿泊しており、何も知らず朝の始発電車で横須賀に帰った。このことを参謀長の井上成美はもみ消して、クーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧に動いた。同年12月1日、連合艦隊司令長官に親補される。
*米内光政。若い時から風貌でも注目を浴びていたそうです(ウィキペディア)
1937年林内閣の海軍大臣を求められる。米内は軍政が嫌いで、連合艦隊司令長官を就任僅か2か月で退任することを渋るが、これは海軍次官の山本五十六が強く推して実現した人事だった。しかし周囲からは、見かけだけ立派なということで「金魚大臣」と渾名がつく。軍務局長に井上成美を招き、非戦派の「海軍左派」が顔をそろえて日独伊三国同盟にとことん反対して、対中戦争の拡大と世界大戦への介入を防ぐ。第一次近衛内閣、平沼内閣と海相を留任して、戦争反対の立場を閣内で貫く。
1940年に大命降下し総理大臣に就任する。しかし強硬派の陸軍と対立は続き、わずか半年で為す術なく内閣は崩壊する。その後は政界から一定の距離を置いたが、1944年陸軍の小磯國昭と2人で大命降下を受け、海軍大臣に再び就任、副総理挌で入閣する。その後鈴木貫太郎内閣でも海相として留任し、和平終戦を繰り返し主張して陸軍と対立する。ポツダム宣言を受諾した後の東久邇宮内閣でも留任し、最後の海軍大臣として歴史ある海軍の幕引きを担った。
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*阿川弘之「海軍三部作」の第1作。連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を成功させましたが、その前は米内大臣を支え、徹底的に開戦に反対しました。
【感想】
米内光政は肚が座り判断が周囲によって影響されず、山本五十六や井上成美などの「海軍左派」から信頼された一方、「面倒くさがり屋」と言われた。艦長としてニュージーランドの小学校を訪問した際、挨拶は「I am very glad to see you, thank you」とのみ。老荘の雰囲気を漂わせ自ら計らうことはせず、目立った存在ではなかったが、周囲からはその人格が次第に浸透し、遂には海軍でなくてはならない存在に成長していった。その経歴は陸軍における阿南惟幾とシンクロする。
けれども真面目一徹という訳ではなく、端正なマスクもあって芸者からも人気があり、息子が海軍に入ると、早速父親の馴染みの芸者を「数多く」紹介されたエピソードを持つ。芸者衆が休日返上で働く海軍スタッフへ芸者手製の弁当を差し入れしていたことが露見して、米内海相と山本次官が激怒して、秘書官を全て解任にしようとした。困った芸者衆が海軍の長老に直訴しようとしたところ、慌てた米内と山本がこれは悪戯ということを明かし、芸者衆に追いかけまわされたという。
海軍内にも当然強硬派は存在する。時には対立し、命を狙われながらも「海軍左派」と呼ばれるほどの姿勢を貫いた。その胆力によって周囲から将来を見込まれ、陸軍とは違い途中予備役に編入されることなく「種の保存」のように大切に育てた姿勢からは、海軍の流儀が感じられる。
自ら計らわず、感情を崩す時が余りなかった米内が、海軍省廃止の翌日の12月1日に宮中に召されてお別れの言上をした際、昭和天皇から「米内には随分と苦労を掛けたね。それがこんな結末になってしまって…。」と言われ、直前まで使用していた筆も墨も濡れた状態の硯箱を直接手渡され廊下へ退出するなり、米内は声を殺して泣き出したという。
敗戦後1945年11月の衆議院本会議にて、軍の責任を問う質問への答弁において、陸軍はその非を認め国民に対して謝罪を行ったが、最後の海軍大臣としてこの国会に立った米内は答弁を拒否した。質問は陸軍に対したもの、との理由だが、戦前、そして終戦時も廟堂にいた米内の対応に、議場は騒然となる。
「米内を斬れ」。阿南陸相が自決の前に語ったとされる言葉。終戦を巡り意見は対立したが、米内が閣僚を辞職しようとしたとき、阿南は真っ先に辞職を思いとどまらせた。阿南は戦争を終わらせるためには米内が必要と思う一方で、軍人・米内の言動から、海軍としてこの戦況を謝罪する姿勢がないことに、不満を抱いていたのではないか。陸軍が政道を壟断して戦争に導いた責任は大きい。しかし戦いの面で中国戦線では善戦していた陸軍に対し、海軍は各地で敗北を重ね制海権を失ったために、補給路を断たれてしまった。
阿南が残した「大罪ニ謝ス」の意味。私は当初、政治を壟断して敗戦まで導いてしまった陸軍の横暴に対して、と思っていた。改めて考えるとそれだけでなく、大元帥の天皇に対して、軍人として「戦に負けた」ことと感じる。最後に一撃し、軍人の体面を保った上で講和を求めた陸軍の願いを「にべもなく」撥ね付けて、堂々と「敗北」を言い続けた海軍の軍人である米内に対して、あの言葉になったのではないか。但し米内は「数学の論理」から、アメリカと開戦すれば国力の差で敗北する、と戦前から明言している。
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*「海軍三部作」の最後は、海軍が担った終戦工作に触れています。ポツダム宣言で問題となった「be subject to(支配下に置かれる。又は隷属する)」の意味について、海軍大臣米内光政か補佐官の杉田主馬に「即答」を求めた印象的な場面は、杉田の孫にあたる石黒賢のファミリーヒストリー(2024.10.14放送)でも紹介されました。
海軍は軍艦や国力など「数字の論理」が優先する世界で、陸軍よりも冷徹な判断を下さなければならない。そのため海軍は米内のような将官も生き残る余地があった。
しかし終戦に導くには、軍人として世界を冷静に見ることができて、かつ「西郷隆盛のように」命を捨てて、全てを飲み込むことができる人物を必要としていた。
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