小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

17 夕陽将軍(石原莞爾) 杉森 久英(1977)

   *日本の古本屋より



【あらすじ】

  1889年山形県鶴岡市に警官の子として、子たくさんの長男として生まれた石原莞爾乱暴で周囲を困らせる一方、学力は突出していた。仙台の幼年学校を首席で卒業し、陸軍中央幼年学校に移っても優秀な成績を続けるが、勉強はせずに奇行ばかりが目立っていた。陸軍士官学校に入校すると上官に口答えをするなど、生活態度の悪さが目立つようになる。

 

 石原は会津連隊に配属されると、連隊の名誉のために陸軍大学校を受験することになり、勉強時間の取れる見習士官の教官となる。しかし厳しい教育訓練を行い、受験勉強をしないまま難関の試験に合格する。本来は徹夜も続く大学校の勉強も要領よくこなしたが、素行は改まらず成績は次席に据え置かれた。

 

 外交官の南部次郎からアジア主義の教えを受け、孫文の革命に共鳴し、ドイツヘ留学してナポレオンやフリードリヒ大王らを研究すると、独自の世界観を構築して日本の歩む道を呻吟する。帝国陸軍が満蒙を支配することが、日本とアジアの問題解決に繋がると構想していく。

 

 1931年満州軍参謀となった石原は、先任参謀板垣征四郎と共に懸案の満州国独立を果たすため満州事変を起こす。23万の張学良軍を相手に、1万数千の関東軍満州を占領した手腕は世界的にも注目され、石原は「時の人」となった。しかし石原の考えは「終戦争たる日米決戦」に備えるための第1段階であり、そのための民族協和であった。

 

 1937年に廣田内閣が総辞職すると、次期首相としてかつて軍縮に成功した宇垣一成大将に大命降下する。しかし石原は宇垣内閣を阻止しようと動く。大命拝辞の説得を受けない宇垣に対し、石原は諦めず、今度は軍部大臣現役武官制に目をつけて、陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作することで宇垣に組閣を断念させる。

 

 関東軍満州で戦線を拡大して、対ソ戦に備えた石原と対立するが、参謀の武藤章は「石原閣下が満州事変時にされた行動を見習っている」と反論し、同席の若手参謀からも哄笑を浴びる。関東軍参謀長から本国参謀長へと出世した統制派首領の東条英機と対立すると、登場は石原を関東軍の参謀副長へ左遷する。石原は病気を理由に許可を得ず帰国し、太平洋戦争開戦前の1941年3月に予備役へ編入された。

 

  石原莞爾ウィキペディア

 

 その後東条に監視されながらも「世界最終戦」を刊行して講演活動を行なう。反東条の動きはやまず、日米開戦には反対の論陣を張る。時には東条暗殺計画にも関わるが、体制を変えるには至らなかった。結局石原の危惧するまま戦争は推移し敗戦を迎える。

 

 石原は東京裁判においては戦犯の指名から外れるが、石原の病状を考慮して、法廷を酒田市に出張して証人として尋問を受ける。しかし石原は、自衛戦争の意義を訴えて、欧米の裁判官たちを煙に巻いた。東条内閣打倒から続いた東亜連盟の活動を通じてアジアの連携を訴え多くの支持者を獲得していったが、体調は回復せずに1949年「8月15日」亡くなった。

 

 

【感想】

 鶴岡市致道博物館を見学した時、郷土の偉人として清河八郎石原莞爾を共にパネルで紹介していた。この2人は庄内地方出身だが、才に恵まれ才に「溺れた」奇人として共通すると思ったもの。清河八郎は佐幕一色の庄内藩における唯一の志士となり、弁舌を唯一の武器として、幕府の力を利用して尊王攘夷を行なう「魔術」を試みたため、裏切られた者たちから恨まれて、非業の最期を遂げる。

 

*同じ庄内地方出身の、清河八郎を描いた作品です。 

 

 対して石原莞爾は「作戦の天才」と言われるも、縦社会の典型と言える陸軍で上司を上司と思わない傲岸不遜な言動を繰り返した。国体を研究するうちに宗教に手を伸ばし、ついに日蓮宗における国体との合一という思想に到達したと言う。日蓮元寇や大地震日蓮宗以外の「邪宗」が世に蔓延しているからと説いて「立正安国論」としてまとめ、日本では珍しく他宗に対して激しく排斥した。

 その「開祖」の教えが乗り移ったかのように、石原は陸軍内で「折伏(しゃくぶく:相手を論破して入信させる)」を繰り返す。当時陸軍は統制派皇道派に分かれ派閥抗争が激化して、陸軍省内で統制派首領の永田鉄山が殺害される事件も起きていた。石原本人は統制派の東条英機にも、皇道派真崎甚三郎荒木貞夫にも属さない中道派。しかし東条を「上等兵」と軽蔑する一方、皇道派の真崎からの誘いの言葉をにべもなく断り、荒木に対しては2・26事件の主犯一味と断定して罵倒するなど、上官を上官と思わない態度を繰り返す。

 その2・26事件の際に参謀本部作戦課長だった石原は、反乱軍が占挺する陸軍省入口を、怒鳴りつけながら強引に入って鎮圧の指揮にあたり、昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない。満州事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している。

 その優秀な頭脳が向かう先を、自ら制御することは出来なかったのだろう。敵を作ることを使命としたように他を排斥して、最後には(郷土の先輩のように)自らの居場所を失ってしまう。本来は宗教家か哲学科に向かうべき頭脳は、陸軍という不合理極まりない組織では、もともと長続きしなかったのではないか。

 

 予備役となってから始めた東亜連盟運動は、東北の貧しい生活振りから脱却を目指すと共に、軍事政治を批判する人々からの支持を得た。その運動を若くから支持した、同郷山形出身の政治家木村武雄はそのおよそ30年後に「元帥」の愛称を持って、雪国育ちで学歴のない田中角栄を、東京帝大卒の官僚たちを押しのけて、総理に擁立するのに活躍した。

 

 

 *1962年、キューバ危機の時期にケネディ大統領と面会した木村武雄(中央。左は佐藤栄作ウィキペディア

 

 人を人と思わない石原だが、唯一敬意を示したのが、陸軍大学校で同期の阿南惟幾だった。

 

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