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【あらすじ】
商の受王(紂王)の側に叔父にあたる箕子と比干がいたが、王は諫言をする彼らを煙たがって遠ざけ、自分の力で体制を改革しようとしていた。対して愛妾の姐己は艶麗さで王を取り込み、紂王は姐己を喜ばせるために 「酒池肉林」と呼ばれる祭典を催す。そして周公を除く三公の陰謀が発覚し、鬼公を含む三人は極刑で謀殺された。
同時に周公父子もそろって捕縛され、嫡子は殺害さてしまう。商に対抗でいるのは周だけであり、ここで周公を失うと商を倒すことはできない、と望は考える。そして対策を練る周公の二男の発(のちの武王)は、望の知恵を頼りにしていた。
周公が獄から出されたが、商は10万の兵を集めて東夷征伐の軍を起こす。商は全軍で50万の動員が可能だか、周の動員能力は10万がやっと。周公は商と戦っても利あらずと考え、兵略の才がある望に意見を求めると、望は模擬戦で一が三に勝つところを見せた。また望は蘇候に、目に見えぬ敵と戦うことが本当の戦い、と知恵を授ける。蘇候はそれから西方の勢力を斡旋して周公に感謝されるが、首謀者の望は自ら動いた痕跡を消していた。そんな望に、蘇候は戦慄を覚える。
周王は崇国を攻めて勝利するが、崇侯1人の首に戦果を止める。暴政に飽いていた諸侯は周を信用して帰属を乞い、周王は河水の両岸を制した。その勢いは商に十分対抗する勢力に成長し、数年のうちに一大決戦が予想された。紂王は急激な情勢の転換に愕然とする。
しかしこの時期に周王が崩御してしまい、望は目の前が暗くなった。今、実績のない後継の発に諸侯が従うだろうか。発の威光を知らしめるためには、大国で中立を守っている召伯を臣従させる他ない。望の斡旋で召伯を味方に引き入れることに成功し、いよいよ出軍が始まろうとしていた。
ここに2人の男が発に近づき、父を葬りもせずに戦いを起こすのは孝と言えず、君主を弑せんとするのは仁ではないと諫める。その2人、伯夷と叔斉は望が少年のとき狐竹の君の側に侍っていた童の成長した姿であった。発の心は痛んだが、出師は決行される。
商の紂王は重臣の比干を殺害し箕子を捕らえる。これをみた家臣たちの心が離反したまま、周軍45万、商軍70万が「牧野の戦い」で激突する。望の訓練で先鋭化された軍は、数の不利にもかかわらず商を打ち破る。紂王は自ら火を放って自死し、妖婦姐己も後を追った。箕子は混乱の中、囚われから脱出するが、望は必死になって追いかける。箕子を心服する者が多い北方で独立されると、混乱は長引くと懸念されたからだ。
追いついた箕子の側には、幼少の時に望を狐竹に送ってくれた士公の部下たちが、後ろには洞窟で望を教えた老人が箕子を守っていた。老人は、箕子は周に反攻しないことを誓い、望はその言葉を信じた。
戦いは終った。望は周公に、褒美として東方の痩せた地に封土を願った。その邑は「人々が斉(ひと)しく住める」として「斉」と名付けられ、32代を重ね600年以上継承された。
*周の武王(ウィキペディア)
【感想】
物語は望の成長物語から商との対決へと移り、「王家の風日」をトレースする。その中で望が放浪の中邂逅した人物たちをつなぎ合わせ、巨大な「商」に対する勢力を糾合していく姿は、「竜馬がゆく」と共鳴し合う。
「王家の風日」でもちらりと登場したが、伯夷と叔斉の挿話は(昔の)日本では有名だったらしい。伯夷が長男、叔斉は三男で、「狐竹の君」である父が弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は遺言に従うが、叔斉は兄を差し置くことができず兄弟で王位を譲り合う。そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れると、叔斉も兄を追って出国してしまい、国王は次男が継ぐことになった。
周国の文王の評判が良いというので周国に赴くも、時は出師を行なう時。この諫言の後に周が建国されると、2人は周の食を得ることを恥として周の国から離れ、最後には餓死した(伯父(母)と叔父(母)の使い分けをする時に、理解が進みます)。
はるか時代が下った日本の江戸時代、三男でありながら父から後継を指名された徳川光圀はこの話に感銘を受け、それまでの蛮行を改める。自らの子がいながらも長男の子を養子として自分の後継とし、水戸学が始まるきっかけともなった。
宮城谷昌光は「商周革命」を商側と周側から描いた。その中で「悪の皇帝」の存在感を放つ紂王だが、望は商を「あの王朝は明けても暮れても祭祀で、王をはじめ王族、貴族は毎日酒を呑んでいる」として、「紂王ひとりが正しかったがゆえに、王朝が誤謬をおかした」と逆説的に述べている。また戦いに勝ったあと「洞窟の老師」と再会した望は「商王朝は選択をあやまった。それでも商王朝は数十年、倒れなかった。いまわが王朝がおなじまちがいをおかせば、三年ももつまい」と自戒している。
*殷(商)の崩壊も、暖淡堂さんが先駆けて紹介しています。この時期を描いた伝記小説「封神演義」にも触れています。
ちなみに太公望が斉の国を建国したのは38歳の頃で、その後100歳まで生きたという伝説がある。釣り人として日本で親しまれる太公望は、中国では兵法者の先駆的存在として尊敬されるとともに、望が斉に封ぜられたあと離縁された女から復縁を迫られたが、復縁を断る「覆水盆に返らず」の故事の主人公ともされている。
夏商革命に導いた伊尹と、商周革命を成し遂げた太公望。2人ともいろいろな意味で、伝説に彩られている。
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