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【あらすじ】
鈴木貫太郎は1868年(慶応3年)、大阪府堺市で代官をしていた父の長男として生まれる。海軍兵学校に入校後、日清戦争では水雷艇艇長として威海衛の戦いに参加し、命がけで敵間際まで接近して勇名は馳せた。しかし出世は遅れ、腹をたて退役を企てるが、父から諭されて階級に関わらず国に尽すことに気持ちを切り替えた。翌1904年2月日露戦争が開戦されると、持論だった水雷戦術の接近戦を体現するために猛訓練を行い「鬼貫太郎」と呼ばれ、日本海海戦では数々の敵戦艦に魚雷を命中させる戦果を上げる。
その後は戦場での勇猛さに加え、懐が大きい性格で周囲から信用を受け、順調に出世する。1914年シーメンス事件が発生し、その後始末のため海軍次官の就任を求められた。政治に不関与の貫太郎は固辞するも、今回も父から諭されて、軍務局長の秋山真之とともに事件の事後処理を行う。
この時期、先妻に先立たれた貫太郎は足立たかと再婚する。32歳のたかは初婚だったが、婚期が遅れたのは皇太子裕仁の教育係を長年務めていたため。その後貫太郎は海軍大将となり、連合艦隊司令長官に、そして海軍軍令部長にと昇進していく。
ところが1929年、昭和天皇の強い希望で、貫太郎は畑違いで軍令部長よりも宮中席次が遙かに下の侍従長に就任した。宮中では細かいことには手をかけず、「大侍従長」と呼ばれて天皇の信用を得る。また海軍軍令部長が「帷幄上奏」をしようとした際は、越権を承知の上で、天皇を補弼するために上奏を阻止した。そのため昭和天皇の信任とは裏腹に、青年将校たちからは「君側の奸」と見なされる。
2・26事件では侍従官邸も襲撃を受け、貫太郎は4発撃たれた。とどめを刺そうしたが、妻のたかが「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言い放った。出血多量で意識を喪失、心臓も停止したが、直ちに甦生術が施され、奇跡的に息を吹き返した。侍従長を退き太平洋戦争が開戦すると、70歳の貫太郎は余生を送っていたが、東条内閣が倒閣して戦局が悪化すると、終戦を見据えて貫太郎に大命降下する。
終戦に向けて、腹を見せないまま突き進む。和平派の東郷外相、米内海相、そして元老たちをいなしつつ、強硬派の阿南陸相を尊重しながらも決断は先延ばしにしていく。原子爆弾が投下されソビエトが参戦、本土決戦が必至になったときに貫太郎は動く。異例だが閣議に天皇を臨席させてまとまらない会議を進めせ、意見が尽きたところで天皇による聖断を導き出す。侍従長を経験し、信頼関係がないと出来ない「阿吽の呼吸」。これで大勢は決し、終戦を迎える。
1948年(昭和23年)4月17日、肝臓癌のため千葉県関宿町で死去。享年81歳。死の直前「永遠の平和、永遠の平和」と、明瞭に二度繰り返したという。
【感想】
「モーニングを着た西郷隆盛」。年老いてから総理に就任した鈴木貫太郎の写真を見ると、まさにこの表現が相応しい。若い頃は戦場で命知らずの働きをする一方、自分の信念を曲げることはできず、時には上官にも反抗して手こずらせる。趣味らしい趣味もなく戦術書を読むことに明け暮れて、兵学は修身、修養、徳義と一対であるとの思想に至り、大西郷を彷彿とさせる。
そして「歴史探偵」半藤一利は、貫太郎の物語の伏線に、後妻のたかを挿入した。たかは幼い時から皇太子裕仁の教育係を務めたため、天皇も母代わりに慕った人物で、そこから貫太郎にも繋がっていく。侍従長就任もその流れにあり、天皇はたかから貫太郎を思い、そして貫太郎本人を「父代わり」として信頼していく。対して貫太郎は、天皇の幼少期の逸話をたかから聞いて、侍従長としての仕事に生かす。なおたかは2・26事件の際、鈴木が襲撃されたことを天皇に直接電話をかけて伝えた。
2・26事件で瀕死の重傷を受け、その後は政界から離れた貫太郎に、天皇から総理の大命が下される。貫太郎は軍人は政治に関与すべからず、との考えを伝え、異例にもその場で天皇の命を固辞する。しかし天皇は口を開く。「ほかにひとはいない」。静寂の中で更なる声。「頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい」。天皇が懇願する異例の展開に、貫太郎は受諾するほかなかった。45歳になる息子の一は、局長の役職を投げ打って秘書を買って出る。「子供でなくはできぬ秘書の仕事がある」と言って。
侍従長時代に親交を結び、お互いに敬意を払った阿南惟幾を陸軍大臣に招き、和平派で総理経験もある後輩の米内光政を海軍大臣に留任させる。3者に昭和天皇を交えた、信頼関係に結ばれた「アドリブ劇」は、まるで西郷と勝の会談で江戸城開城を決めたように、終戦に向けて繰り広げる。全てが終わり辞表をとりまとめて天皇に差し出す貫太郎。本来はそこで儀式が終るが、天皇は「本当によくやってくれた」と2度重ねて伝え、侍従長時代から2・26事件で死線をさまよい、そして誰もが手をつけられなかった終戦を成し遂げた寛太郎の、長きに渡る労をねぎらう。
*最後の海軍大将で海軍兵学校校長を務めた井上成美(ウィキペディア)
戦争がたけなわで敗色も漂う昭和18年、政界から離れていた高齢の貫太郎は、以前校長を務めた海軍兵学校へと、わざわざ広島の呉まで訪ねた。当時校長の井上成美は、30年前に兵学校卒業した後、鈴木艦長の船に配属された関係。そこで貫太郎は「教育の効果が現れるのは20年さきだよ、井上君」と言葉をかけ、井上は大きく頷いたという。寛太郎の次世代に託す想いとその想いを受けとめ、戦時教育を強いる周囲に断固抵抗して、「戦後」を見据えた日本人を育てようとした井上校長の姿勢は、阿川弘之の名作「井上成美」で触れられている。
その2年後、身を挺して終戦に携わり日本の未来を切り開いた貫太郎は、20年後まで生きることはできなかった。しかし貫太郎の、そして井上の願い通り、日本は敗戦を経て独立すると、高度経済成長を成し遂げる。会談の21年後には「平和の祭典」東京オリンピックが開催され、世界に日本が復興した姿を披露した。
復興の中で、海軍の技術が寄与した部分は大きい。
(読売新聞より)
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