小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

4 悪魔の手毬唄 横溝 正史 (1959)

【あらすじ】

 岡山県の山奥にある鬼首村で休養していた金田一耕助。そこで磯川警部から、23年前に滞在していた「亀の湯」で起こった未解決事件の話を聞く。当時は村に田畑を有する名門の由良家と、山を所有しブドウ栽培等で勢いのある新興の仁礼家が競っていた。そこに恩田幾三という人物が現れて新しい事業の口利きをしたが、亀の湯の女主人、青池リカの夫青池源治郎が詐欺と見破ったために、恩田から殺害されたと見られていた。当時事件を担当していた磯川警部は、死体の顔を焼きただれて判別がつかないため、本当に源治郎が殺されたのか今でも疑問が残るという。

 そんな時、鬼首村出身でスターになった大空ゆかりが凱旋することが決まる。大空ゆかりは恩田幾三の娘で、村で迫害されて出ていった経緯があった。

 その凱旋を待っていたかのように、連続殺人事件が発生する。

 

【感想】

 個人的には横溝作品のベスト、そして国内ミステリーのベストの1つと思っている作品。

 23年前の事件と現在の事件の繋がり、名門と新興の家が対立する村、そして複雑な人間関係、闇夜の中を徘徊する老婆、見立て殺人と不気味な手毬唄、思いがけないトリック、意外な犯人。そして説得力がありながらも悲しい動機と、悲しい別れ。

 これら多数のピースが綿密に絡み合い、有機的に結合して壮大なストーリーが展開されている。1947年に連載が開始された「獄門島」も素晴らしく、また先駆的な意味も強いが、私は本作品を先に読んでしまった関係もあり(映画化の関係)こちらに軍配を挙げる。まとめていうと「横溝作品の集大成」。

*ブームにもなった石坂浩二主演の映画(1977年)

 

 由良家(枡屋)、仁礼家(秤屋)、そして大空ゆかり(錠前屋)と、同じ年の美しい3人の娘に、赤痣に覆われている青池リカの娘里子。この娘らを巡り「華やかな」見立て殺人が連続して起こる。見立て殺人をしたいがために数々の童謡などをあたり、ついには童謡を作ってしまったのは有名な話(実際の俳句と使って見立てをした「獄門島」の方が、発想が素晴らしいと思うが)。

 それと対比するかのように、暗い山道や村のあぜ道を徘徊する、腰の曲がった老婆小りんの不気味さ。まるで作品の間を縫うように歩き回るイメージで、本作品を思い出すと、なぜか私の頭の中で小りんが歩き回っている。最初に登場して行方不明になる庄屋の末裔、多々羅放庵と残された山椒魚の存在も相まって、華やかさ故の強烈な不気味さが、物語全体の雰囲気を決定づけている。

 そして小りんが追い詰められて、ついに底なし沼に飛び込む場面。続いて死んだ小りんが引き上げられた時の衝撃は、初読から40年以上経った今でも忘れられない。

 関係者が集まって、金田一耕助から語られる真相は、「Xの悲劇」の舞台裏の章を読んで味わった感動とほぼ同一。全ての疑問が驚きを取り交ぜながらも論理的に、具体的に披露される。見立て殺人の理由もうまく説明されていて、単なる装飾を言われないように論理を補強している。そして殺人の動機は当時中学1年の私には刺激が強かったが、それでも犯人の心情を思うと切なさが募った。

 それだけにラストシーンはちょっと心が救われる。大空ゆかりと青池リカの娘、歌名雄のシーン。そして磯川警部と金田一耕助の別れのシーン。昔はこの作品の雰囲気を損なっているとも思ったが、年を取って振り返ると「絶対に」必要なシーンであることがわかった。

*こちらは1961年の映画(金田一耕助高倉健!)。以降幾多も映像化されました。

3 りら荘事件  鮎川 哲也 (1958)

【あらすじ】

 埼玉県と長野県の境近くにある、証券会社の社長が所有していた「りら荘」。社長は恐慌で持ち株が大暴落しりら荘で自殺し、その後日本芸術大学が買い取り、学生のリゾート用として開放していた。

 同大学の学生男女7名がりら荘を訪れ、その夜のパーティーで、メンバーの2人が婚約発表して参加者を驚かす。翌日りら荘に警官が訪れ、りら荘のそばの崖下で死体が発見されたと知らされる。死体にはメンバーの1人の持ち物で、今朝失くしたというレインコートが被されていた。そして横には死を意味する札、スペードのAが置かれていた。更にスペードの2が郵便受けから見つかり、第2の殺人が起きる。事件は連続殺人の様相を呈し、次々と被害者が増えていく。

 

【感想】

 連載開始が1956年で2年後発刊された。1956年(昭和31年)を鮎川哲也的に言えば「黒いトランク」が発刊された年であり、日本社会的に言えば「もはや戦後ではない」と経済白書に記述された年で、これはもう歴史の一部である。時代を感じされる差別的な用語も使われているが、内容は「新本格派」の作風で驚くほど新鮮なものになっている。「本格派の闘将」と言われた作者の、本領を発揮した作品。

 学生たちが別荘に集まる設定は、綾辻行人の「十字館の殺人」や有栖川有栖の初期3部作、そして今村昌弘の「屍人荘の殺人」など溢れかえっている。またトランプで殺人を予告する手がかりは「そして誰もいなくなった」と重なる。松本清張もまだ活躍以前の時代に、このような時代を先取る「バタ臭い」本格推理小説が生み出されていたのには驚かされる。その結果、若きパズラーたちが憧れ、そして目標にした存在となった。

 

 まず芸術大学の学生という設定が意味深い(実は登場人物を芸術大学の学生にした「伏線」があるのだが、それとは別に)。当時は日本がまだ貧しかった時代で、芸術大学の学生というと、金銭的に恵まれて一般からみれば「浮世離れ」したイメージ。昭和31年に学生がリゾート用の館に集まりパーティーをしているのは「上級国民」の家庭のみだったはず。

 死体は何と7体。別荘に集まった学生が7名だが、管理人や学生と共通の知人なども殺される。また学生の内1名は事件当初から東京に出ていて不在で、途中で戻って来ている(何で殺人事件の舞台に戻って来るのか、そして警察がなぜ許したのか、読んでいて不思議だった)。また1人は容疑者として逮捕されるが、拘留中にも殺人事件は続いて、容疑者は絞られるはずが、あちらが立てばこちらが立たず。

 そこで警察もお手上げとなり、東京から探偵を呼び出して捜査の協力を依頼する。この展開は島田荘司の「斜め屋敷の犯罪」と瓜二つ。そしてやや奇矯な人物が最後に現れて事件を一機に解決する姿は、若き日の御手洗潔そのものである(やって来るまで、ちょっとタメるのも瓜二つ)。

 真相は積木細工のように技巧的で複雑。計画と偶然が重なり合い、学生達の思惑が入り乱れる中で論理的な破綻なく事件を解決さてせるのは見事。しかし「清張以前」、海外ミステリーがまだ簡単に読める状態でなかった時代に、軽薄に見える若者達が集まって「動機が希薄に見える」殺人を繰り返す小説を、当時の社会はどう見たのか想像がつく。そのためか、結局この「早すぎた」名作も一度絶版の憂き目にあっている。

 けれども「本格推理」の松明(たいまつ)はかすかながら受け継がれた。この松明を頼りにして若者達が新本格派のムーブメントを起こす。そして若者達は先駆者である作家鮎川哲也と本作品に敬意を表して、報われない時代に灯した「松明」に対しての「オマージュ」となる作品を次々と発表した

*一度絶版された後、現在では様々な出版社から刊行されています

 

消えてしまった私の実家

今週のお題「わたしの実家」

 

 私の実家は私が1歳のときに両親が建てたものです。それまでは両親がアパートを転々としていましたが、当時東京の水道事情や空気事情、そして日照も悪い場所が多かったため、兄に次いで弟の私が生れた時期に子供たちを育てる環境を考え、父がかなり背伸びして横浜の郊外に家を求めたそうです。

 そのため私の一番古い記憶は「実家」。当時は木造平家建で、のちに子供部屋として2階を「建て増し」(この言葉も最近は見なくなりました)して、私が30歳手前になるまで生活を続けました。

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 今まで書いてきた、私が読んだ本の大半は「実家」で読んだもの。そのため読書の感想とともに、居間や寝室、そして書棚の光景も一緒に記憶に刷り込まれています。父は自分で敷地の囲いにブロック塀を建て、また駐車場も自ら作り、母は本当に小さな庭に自分の好きな植物を植え、手入れをするのが趣味となっていました。

 私が大学を卒業して、就職して転勤族となり実家から離れてしまいました。それでも残された両親や兄が住み、たまに帰省していたものです。

 ところが母が病気で入院生活となり、最後の外泊許可で実家に戻ってきたときに、慈しむように庭の手入れをして、病院に戻るときに「戻りたくない」とつぶやいたのを今でも思い出します。そして母が亡くなると、見る見る内に庭は荒れて、誰も手を入れない状態になりました。

 その後父も病気になり、長い入院生活と、施設での生活が始まります。入院、手術してから亡くなるまで5年間、結局家に帰ることはできず、そのときから家に住むのは兄だけになりました。ところが兄は掃除など全くできず、だんだんと「ゴミ屋敷」となって行きます。たまに私が帰って掃除しても同じ事の繰り返しで、終いには全く開けない雨戸にはツタが絡まり、垣根は道を邪魔して、近所の迷惑にもなっていきます。私もたまに実家に帰っても、泊まるどころか、中に入るのもためらうばかりの状態になりました。

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 そして父も亡くなりました。家を出てから30年以上経っている私は、実家の相続は兄に譲り、実家を任せました。そうしたらわずか3年後に兄から連絡が来て「実家を売ることに決めたから」と言われました。金銭的な点を考えた挙げ句の決断を伝えられ、30年近く前から家を出て、家の相続も放棄した私は拒否することはできず、その決断を単に「聞き入れる」立場にすぎません。

 昨年6月、コロナで延期されていた実家の売却が行なわれ、50年以上そこに住んでいた兄もアパートに引っ越ししました。

 昭和1ケタ生まれの父は、小学校を卒業するとそのまま地元で仕事をして、戦後になると、このままではいけないと思い、片道の運賃のお金を握りしめて東京に出ます。怒られたり騙されたりしながら、転職を繰り返し散々苦労しながらも、徐々に技術を身につけて仕事も安定させました。そして子供たちのためにと、職場から多少離れても、空気の綺麗な場所に家を買い求めました。親戚に頭を下げて借金をして建てることができ、そして石油ショック前に借金を片付けることができて、幾分恵まれた形になりました。

 そんな口下手な父も、年を取るとよく「人生で嬉しかったのは、お前たちが生まれたことを除くと、自分の家を持てたことだ」と言っていました。

 家で生活をしていくと、様々な思い出とともに、月日も重ねていきます。建物はだんだんと朽ちていき、やがてその役割を終えていきますが、家の思い出は生活した人たちに残っていきます。田舎や町中で最近よく見かける、誰も住む人がいなくて残されている家を見ながら、そのようなことを感じます。

 そこに生活した人にとって家の思い出は、例え建物が無くなっても、亡くなった家族の思い出と同じように、残された者の心にいつまでも残り続けます。

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