小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

3 ソニーを創った男、井深大 小林 峻一 (2002)

【あらすじ】

 2歳の時に父と死別しまた母親と別れて祖父母との生活や、再婚による厳格な義父との生活など、感受性が豊かな時代に様々な経験を重ねた井深大(いぶか・まさる)。そんな中で小説と機械いじりに興味をもちながらも、名門の旧制神戸一中に入学する。

 ところがその後、自ら無線受信機を全くの独学で作成して、当時は違法であったアマチュア無線を自宅でこっそりと行うようになる。無線に熱中したおかげで学校の勉強に興味を失った井深は留年を経験し、帝国大学への進路は断たれる。早稲田に進学した井深は学生なから様々な発明を行い、注目を浴びる。「ソニーを創った男」を描いたノンフィクション。

 

【感想】

 松下幸之助の次は井深大。あまりにもベタだが、比較するにはもってこいだろう。本作品はノンフィクションで、どちらかというとソニーで活躍する「前後」に紙面を割いているが、それはそれで興味深い。【あらすじ】で書いた違法のアマチュア無線に熱中する様は、日本の経営者というよりスティーブ・ジョブズビル・ゲイツか。そしてもう1つ。自宅でこっそりとアンテナを立てて電波を受信しようとする姿は、東野圭吾が描いた「虹を操る少年」を思い出した。

 このような体験もあり、早稲田大学理工学部では、専攻を当時就職に有利だった重電(発電機、送配電など大企業向け商品)ではなく、弱電(電話、ラジオなど個人向け)を選んだ。そして卒業実験のテーマは当時早稲田で研究していたテレビジョンの受信機能に関する「高周波や音声による電圧を外部から加えることによって、ここを通過する光の振幅や周波数などを変化させる装置(同書106ページ)」。まさに「虹を操る少年」である。

 

nmukkun.hatenablog.com

東野圭吾が「天才」を描いた作品です。

 

 世界恐慌が吹き荒れる昭和8年、早稲田大学を卒業した井深は、就職の第一希望を東京電機(後に芝浦製作所と合併して東芝となる)だったが、「偏った勉強」しかしなかった井深は、就職試験を見事すべってしまう。今の東芝を考えて、もしも井深が東芝に就職していたら、と考えるのは野暮だろう。戦時中の大企業で個性を発揮できずに、不満をくすぶらせていたか、若くして画期的な発明をして、後にパージの目にあったかもしれない。いずれにせよ、後から見ると「なるべくしてなった」としか思えない運命の分岐点を選択している。

 写真工学研究所に就職した井深は商品開発で頭角を現し、長野に疎開して開発を続け、軍需産業にも貢献するがそこで終戦を迎える。ここで、終戦翌日に東京にいち早く戻り、東京で事業を興す必要性を感じ取って2ヶ月後の昭和20年10月に東京通信研究所を立ち上げる。ここでまだ混乱が続き、治安が不安定で食糧事情も劣悪な東京「復帰」を決断したのは、常人と違う「目」を持っていたからだろう。そしてその選択が「盟友」盛田昭夫との出会いをもたらすことになる。

   井深大ウィキペディアより)

 

 翌年5月、会社設立。その経営方針として「不当なる儲け主義を廃し」、「他社の追随を許さざる独自なる製品化」を高らかに宣言する。これは時代が異なるが、松下幸之助が昭和8年(井深が大学を卒業した年)に制定した「産業報国の精神」など5つの理念と、今から見ると通じるものを感じさせる。

 それからの活躍は皆さんご存じの通り。井深は晩年、幼児教育を初め、東洋医学から超能力に興味を持って、周囲からは陰口を囁かされたという。その方向性は「技術のソニー」から見ると確かに「一笑に付すもの」だろう。しかし私は科学が行き着く先には、スピリチャルなものが待っていると捉えた、アーサー・C・クラークの名作「地球幼年期の終わり」と同じ軌跡を描いていると考える

 

*SF界の巨人が描いた金字塔。

 

 

2 不況もまた良し 津本 陽 (2000)

【あらすじ】

 松下幸之助の一代記。徒手空拳、九歳で和歌山の農村から出た松下幸之助は、大阪・船場自転車店で働き、商売を身体にたたき込んだ。やがて自ら考案した改良ソケットの工場を創業する。最初はなかなか売れず運転資金にも事欠くが、義弟の井植歳男(のちの三洋電機創始者)と未来を信じて営業に回る。そこから仕事が次々と増え、ついには世界に冠たるパナソニック・グループを作り上げた。戦前から戦後まで、好況のときもそして不況のときも、創意と工夫で日本経済を牽引したカリスマの生涯を描く。

 

【感想】

 20世紀におけるアメリカの代表としてIBMを取り上げたが、日本ではこの人が相応しい。

 会社創業は1918年で23歳のとき。当時専門家でしかできなかった電球の交換を、一般家庭でも手軽にできるように改良したソケットを発明する。この商品を信じて足を棒にして営業を重ねるもなかなか売れなかったが、そこから扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。その後、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプを考案し、これらのヒットで乾電池などにも手を広げた。

   *ウィキペディアより

 

 1929年、松下電器製作所に改称するも、同年発足した浜口内閣が緊縮政策を取ったために日本全国で不況の波に呑まれる。このままでは倒産の危機に瀕し、周囲からはリストラを進言されるも断じて首を縦に振らない。そんな中新事業のラジオ製作に活路を見出そうとして一時は返品の山となったが、日本放送協会の懸賞募集で1等を受賞してその商品の技術力を世間に訴えた。

 早速代理店に販売を求めるが、当時ラジオは投げ売りの状況で、松下製の商品はほかより明らかに高い。代理店からは価格を下げるように要求が出たが、幸之助はここでも一歩も引かない。原価計算をして適正な価格で販売することを説明し、説得する。そこで信頼を得て、不況のさなかに松下電器は躍進を遂げる

 「産業報国」で戦争中に日本に貢献した松下幸之助は、戦後「財閥指定」を受けて公職追放される。「徒手空拳」の中で会社を育てた松下電器産業が「財閥」とは到底納得できなかったが、公職追放を言い渡されると、これには反論の余地がない。ところが幸之助を必要とする労働組合公職追放の指定解除を求め陳情に行き、GHQの担当官が松下電器の経営理念に感動して、公職追放の解除に尽力する

 昭和22年に幸之助は公職追放を解除されたが、戦後のスーパーインフレが進行し、昭和23年には金融引き締めに転じ、また「過度経済力集中排除法」によって解体の危機にさらされた。そして昭和24年には「ドッジライン」で強力なデフレ政策が進められる。税金の滞納、給料の遅配、融資の拒絶、そして希望退職者の募集。「四面楚歌」の中で幸之助は「人間」を見つめ直し、PHP運動を始める。

 1964年、会長に退いていた幸之助は、有名な「熱海会談」を開く。新興スーパーマーケットとの競合による売行不振、熾烈な販売ノルマや販促グッズの押し付け、欠陥テレビの修理費負担などが問題化して、代理店が苦しんでいる状況を正確に把握していなかったと、3日目になって自ら謝り、70歳の会長が営業本部長代行に就任する

 事業部直販性による流通ルートの簡素化。新月賦販売制度の創設による代理店の回収負担軽減。代理店の店会積立金制度を創設して代理店と松下電器の繋がりを深くする。そして業界全体で自主調整を呼びかけて、過当競争の防止に努め、業況は急速に回復する。

 「好況良し、不況また良し」。不況時には普段は見えない会社の問題点が浮き彫りにされ、会社の基盤を強くして他社と差をつけるチャンスになる。「人の行く裏に道あり花の山」。不況の時に松下幸之助は「経営の神様」の本領を発揮した。

 

*但し松下幸之助も絶対ではない。「経営の神様」による呪縛を描いた裏面史。

 

1 IBM の息子 トーマス・J・ワトソン・JR (1991)

【あらすじ】

 IBMを巨人にした偉大な父、トーマス・J・ワトソン・シニアに対しての反抗心もあり、悪戯好きで時には警察のお世話になった少年時代を過ごしたジュニア。新入社員生活を営業マンとして過ごし、戦争で活躍したあとIBMに復帰し、父の跡を継いでIBMの社長に就任する。当時は黎明期であったコンピュータの将来性を見据えて先行投資を行い、IBMをコンピュータ業界の「巨人」に成長させる。ユーモア精神もあり、好悪も率直に述べた、小説のような自伝。

 

【感想】

 電機・IT業界のくくりは、本作品からスタート。偉大な父、シニアが戦前に築いたIBM帝国は、アメリカの企業には見られないいくつかの特徴があった。

 IBMセールス・スクールによる新入社員の営業マン研修制度。白のYシャツに濃紺のスーツで統一した、隙のない「ユニフォーム」で統一した社員たち。高価で故障しやすい当初の「パンチカード式」計算機を利用してもらうために、レンタル契約にして、販売後のメンテナンスやサービスを継続して行った。そのことで顧客からの要望を吸い取り、リピートを生み出す仕組み。そしてレンタルにすることで、景気に左右されない毎年安定した売上を確保する会社基盤を築き上げた。これらは丸っきり、半世紀後に一世を風靡した「日本的経営」に通じるもの

 

   

 *従業員に、「THINK」を求め続けた父 トーマス・J・ワトソン・シニア

 

 ニューディール政策の失業者管理や、第二次大戦による軍の物資管理などでIBMの「パンチカード式マシン」(今の人は想像できないだろうね)は活躍して、計算機業界に君臨する。ところが間もなく、UNIVACがコンピュータを製造するに及び、時代遅れとなったことを痛感。そこでIBMは朝鮮戦争を契機に、軍に納入するために巨費を投じてコンピュータ開発を行ない、成功を収める。

 

 *IBM制の「パンチカード」。こちらで情報を管理(ROM=Read Only Memory)しました。(ウィキペディアより)

 

 真空管による第一世代、トランジスタによる第二世代のコンピュータを開発したIBMは、1964年に集積回路による第三世代のコンピュータで、全てのシリーズでアーキテクチャ(互換性)を持つSystem /360を発表する。周囲からは「無謀な冒険」とも言われてその動向が注目されたが、結果的には成功する。

 但し納期の後れや、巨額の研究費を投入したために資金繰りに窮するなど、「IBM設立以来」の問題に直面する。結局問題はクリアされて、System /360は大成功するが、その過程で実弟を始め、何人かの幹部がダメ―ジを受けて失脚する。その姿は正に「一将功成りて万骨枯る」

 本作品を読んでいると、その時折で「賭け」には出ているが、IBMと言っても技術だけでなく、販売網の充実と営業マンの育成が会社に欠かせないことがよくわかる。これも例えば家電のパナソニック、自動車のトヨタなどと同じく、技術だけでなく販売が充実していないとその業界のリーディングカンパニーにはなれない、日米で共通する「公理」が描かれている

 トーマス・ワトソン・JRは心臓発作で倒れ1971年にIBMから引退する。その後、ロシア語の知識から駐ソビエト大使を務めるが、直後にアフガニスタン侵攻が起きてその対応に追われ、1980年の大統領選でカーターがレーガンに敗れることで退任。失意のうちに帰国する。

 1981年、古巣のIBMは、アップルなどのパーソナルコンピューターに対抗するため、突貫工事で「IBM PC」を作りあげた。こちらも大成功するが、突貫工事のため自社で開発する時間がなく、CPUはインテル製、そしてOSは当時25歳の「パソコンおたく」ビル・ゲイツに「MS-DOS」の製作を依頼した。

 「ボス」が失意の底にある時、IBMは知らず知らずのうちにコンピューターの「頭脳」を明け渡すという、将来の会社経営に禍根を残す「千慮の一失」を犯していた。時にアメリカの国家そのものと言われ、20世紀のコンピュータ業界に君臨した企業。全世界に特許戦争を繰り広げて、スパイ事件の中心ともなったほどの影響力をもった企業だが、インテルマイクロソフトと比べて、20世紀の幕引きにおける存在感は、余りにも薄い。

 それはトーマス・ワトソン・JRが大使を務めたソビエト連邦の軌跡とそのまま重なる。

 

   *そして息子も「THINK」を求めた(Ivy styleより)