小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

2 不況もまた良し 津本 陽 (2000)

【あらすじ】

 松下幸之助の一代記。徒手空拳、九歳で和歌山の農村から出た松下幸之助は、大阪・船場自転車店で働き、商売を身体にたたき込んだ。やがて自ら考案した改良ソケットの工場を創業する。最初はなかなか売れず運転資金にも事欠くが、義弟の井植歳男(のちの三洋電機創始者)と未来を信じて営業に回る。そこから仕事が次々と増え、ついには世界に冠たるパナソニック・グループを作り上げた。戦前から戦後まで、好況のときもそして不況のときも、創意と工夫で日本経済を牽引したカリスマの生涯を描く。

 

【感想】

 20世紀におけるアメリカの代表としてIBMを取り上げたが、日本ではこの人が相応しい。

 会社創業は1918年で23歳のとき。当時専門家でしかできなかった電球の交換を、一般家庭でも手軽にできるように改良したソケットを発明する。この商品を信じて足を棒にして営業を重ねるもなかなか売れなかったが、そこから扇風機の部品を大量に受注したことにより窮地を脱した。その後、二灯用差込みプラグがヒットしたため経営が軌道に乗る。カンテラ式で取り外し可能な自転車用電池ランプを考案し、これらのヒットで乾電池などにも手を広げた。

   *ウィキペディアより

 

 1929年、松下電器製作所に改称するも、同年発足した浜口内閣が緊縮政策を取ったために日本全国で不況の波に呑まれる。このままでは倒産の危機に瀕し、周囲からはリストラを進言されるも断じて首を縦に振らない。そんな中新事業のラジオ製作に活路を見出そうとして一時は返品の山となったが、日本放送協会の懸賞募集で1等を受賞してその商品の技術力を世間に訴えた。

 早速代理店に販売を求めるが、当時ラジオは投げ売りの状況で、松下製の商品はほかより明らかに高い。代理店からは価格を下げるように要求が出たが、幸之助はここでも一歩も引かない。原価計算をして適正な価格で販売することを説明し、説得する。そこで信頼を得て、不況のさなかに松下電器は躍進を遂げる

 「産業報国」で戦争中に日本に貢献した松下幸之助は、戦後「財閥指定」を受けて公職追放される。「徒手空拳」の中で会社を育てた松下電器産業が「財閥」とは到底納得できなかったが、公職追放を言い渡されると、これには反論の余地がない。ところが幸之助を必要とする労働組合公職追放の指定解除を求め陳情に行き、GHQの担当官が松下電器の経営理念に感動して、公職追放の解除に尽力する

 昭和22年に幸之助は公職追放を解除されたが、戦後のスーパーインフレが進行し、昭和23年には金融引き締めに転じ、また「過度経済力集中排除法」によって解体の危機にさらされた。そして昭和24年には「ドッジライン」で強力なデフレ政策が進められる。税金の滞納、給料の遅配、融資の拒絶、そして希望退職者の募集。「四面楚歌」の中で幸之助は「人間」を見つめ直し、PHP運動を始める。

 1964年、会長に退いていた幸之助は、有名な「熱海会談」を開く。新興スーパーマーケットとの競合による売行不振、熾烈な販売ノルマや販促グッズの押し付け、欠陥テレビの修理費負担などが問題化して、代理店が苦しんでいる状況を正確に把握していなかったと、3日目になって自ら謝り、70歳の会長が営業本部長代行に就任する

 事業部直販性による流通ルートの簡素化。新月賦販売制度の創設による代理店の回収負担軽減。代理店の店会積立金制度を創設して代理店と松下電器の繋がりを深くする。そして業界全体で自主調整を呼びかけて、過当競争の防止に努め、業況は急速に回復する。

 「好況良し、不況また良し」。不況時には普段は見えない会社の問題点が浮き彫りにされ、会社の基盤を強くして他社と差をつけるチャンスになる。「人の行く裏に道あり花の山」。不況の時に松下幸之助は「経営の神様」の本領を発揮した。

 

*但し松下幸之助も絶対ではない。「経営の神様」による呪縛を描いた裏面史。