小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

お寿司の思い出

今週のお題「寿司」

 

 私が子供の頃は回転寿司もまだこの世に存在せず、お寿司屋さんは我が家にとってかなり敷居の高いものでした。当時お寿司を食べるといったら、「小僧寿し」チェーンで買ってくるもの。今思えばマグロもペラペラの身でしたが、それでもご馳走でした。そのため「ど根性ガエル」に出てくる宝寿司の梅さんはもう羨望の的(笑)。梅さんが出てくると私も主人公・ひろしのように、おこぼれにあずかれるのではないかと期待したもの。何かの記念日になると、スーパーで握り寿司のネタパックを買って、母がシャリを型押ししてお寿司を作るのを手伝って、喜んでいたものです。

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  我々世代では、お寿司と言ったら宝寿司の梅さんです! (画像:日本テレビ

 

 その後スーパーでもパックでお寿司を売り出すようになり、近所に回転寿司ができて家族で行くようになって、お寿司もだいぶ身近な食べ物になりました。4人家族でしたが、私や兄だけでなく父も食欲旺盛で、4人で100皿を超える量も食べたもの。私はトロ、エビ、ハマチ、サーモンなど王道を好みましたが、父は赤身やタコやイカなど安い物中心(笑)。兄は味噌汁や茶碗蒸しなどサイドメニューも一通り注文します。でも最近、父の年齢になると、タコやイカを頼む気持ちがわかってきました。

 社会人になってからも普段は回転するお寿司が中心ですが、魚介類が新鮮な地方に行ったこともあり、たまには「回転しない」お寿司屋さんにもお邪魔するようになります。沼津港の有名店「双葉寿司」や「鮨庵さいとう本店」。北陸金沢の名門「小松弥助」や隣町小松市の「福助」、そして回転寿司でもなまじっかな寿司屋に負けていない「まいもん寿司」。現在の地元宮城は塩釜の「すし哲」などの有名店にもお邪魔して、(たま~に)舌鼓を打つことになります。一時期BS12で放送されていた「早川光の最高に旨い寿司」は、私にとって最高に癒しの時間になっていました。

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 そんな中、どうしても忘れられないお寿司があります。

 小学3年生の頃、両親が親戚の結婚式に出席するため、珍しく2泊3日で家を空けることになりました。残されたのは3歳年上の兄と私の2人。母は一定のお金を私たちに預けて食事を任されることになりました。ところが兄は料理はまるでダメ。対して食いしん坊の私はよく母の夕食作りを手伝っていて、愛読書の1つが料理本と、もうやる気満々。初日は前日の残り物でしたが、2日目は料理本をみながら作ったチキンソテーにニンジンのグラッセという、和風ばかりの我が家では今まで出たことがないメニュー(笑)。これで気をよくした私は、最終日、両親をビックリさせようと、お寿司を作り始めます。

 お米の分量はいつも手伝っていたので承知済で、シャリは料理本を見て何とか作りあげます。寿司のネタパックだけでは足りないので、マグロのサクも買って、見よう見真似でゆっくりと包丁を引いてネタ作り。準備ができるとあとはシャリを型押しして、どんどんと100貫以上作りあげました。

 今から思うと大した作業ではないけど、初めて家族のために自分1人で作った夕食でした。帰ってきた両親はもうビックリして、電話で祖母に帰宅の報告がてら、夢中で嬉しそうに話していたことを思い出します。

 もう半世紀も昔の話。ですが今でも(フランチャイズの)「回転する」お寿司屋さんにいくと、あの時のちょっと誇らしげな、食卓が輝いて見えた時の記憶が甦ります。

 

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11 ポケットにライ麦を(マープル:1953)

【あらすじ】

 投資信託会社の社長、レックス・フォテスキューが毒殺された。彼の上着の右ポケットには、なぜかライ麦の穀粒がいっぱい詰まっていた。ニール警部はフォテスキュー一家が住む水松(イチイ)荘に乗り込むが、さらにフォテスキュー夫人も毒殺され、小間使いのグラディスが洗濯バサミで鼻を挟まれた絞殺死体として発見された。

 グラディスはミス・マープルがかつて行儀作法を教えた娘であったため犯人に言い知れぬ憤激を覚えながら現場に乗り込み、ニール警部にマザーグースの童謡「ポケットにライ麦を つめて歌うは街の唄」を口ずさみ、事件が童謡の歌詞どおりに起きていることを示唆する。

 

 【感想】

 ミス・マープルの作品では、本作品を最初に取り上げた(ポアロ物は8編と考えていたが、ずるずると10編に増えてしまい、あとがつかえてしまったww)。

 本作はマザーグースの見立て殺人となっている。昔は「見立て」が好きで、それだけで喜んだが、今は単なる言葉遊びでは許さない(?)気持ちになっている。その点、本作品は重要な伏線にもなっていて、役割がきちんとしている。フォテスキュー一家に復讐心を燃やすマッケンジー夫人の構図が、物語の底流となっている。

 但しそこにマープルが「手塩にかけて育てた」不遇な生い立ちのグラディスも被害者に加わることによって、物語が立体化する。連続殺人の中で、犯人からすれば「誰でもよかった」女性を利用したあげく、マザーグースの歌詞の1つに落とし込んむ理由で殺害した(と思われる)犯人に対してのマープルの怒りが、本作品に強烈なアクセントと「もうひとつのテーマ」を与えることになる(この辺の殺害動機は「ABC殺人事件」に通じるものがある)。

 そのため、マープルの外観を「ふんわりとした感じの老婦人で、なんとも愛らしく、とても無邪気」と表現しているにも関わらず、登場シーンの最初は「老婦人」とあえて名前を使っていない。「悲嘆と憤懣(ふんまん)」の表情を浮かべさせ、今までの作品にない緊張感を出している。ただ、そこからまたちょっと控えめに、いつものセント・メアリ・リード村の人間関係に模した人物観察による推理が、ニール警部の捜査の合間に入ることになる。

 マザーグースだけではない、物語のところどころに埋め込んだ「伏線だらけ」の合間を縫って、マープルは真相を捉え、そして真実が語られる。伏線が全て回収され、マープルはニール警部に奨学金試験を受けに行く利口な甥を、おばが励ます(よくもまあ、こんな見事な比喩が使われること!)ように捜査の仕上げを依頼する。ここで読者もほっと一息。ところがクリスティーは本作品をこれで終らせなかった。

 

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 マープルが自宅に帰った最終章。ここでマープルが登場した時に浮かべた「悲嘆と憤懣」が回収される。ここでの非常に切ない設定、努力する登場人物が見事なまでに報われない光景は、私が「後味の悪い小説を書かせたら日本一」として愛してやまない貫井徳郎の名作「灰色の虹」の最終章を思い浮かべた。物語の最後で、読者に「感動」を与える設定は余りにも見事。 

 「灰色の虹」は最終章で、読み手に救われない無常観を与えるが、本作品は本来の事件の姿であった「フォテスキュー家連続殺人事件」を、マープルが被害者の無念を晴らす「正義の鉄槌」の物語に一変させてしまった。事件の構図を反転させるのが得意なクリスティーが、本作品では「作品の主題」を見事にひっくり返した。

 マープルが全ての「任務」を果たした後、本作品の最後の文章を締める比喩の文章は、非常に巧緻で軽口を挟めない内容になっている。 

 顎骨のかけらと数本の歯から絶滅動物を復元するのに成功した専門家が感じるのにも似た喜びだった。

 

 非常に困難だった事件の解決と、グラディスの無念を少しでもはらせた気持ち。そしてマープルが自分の役割を「ネメシス(復讐の女神)」と認識した瞬間であろう。

(引用はクリスティー文庫山本やよい訳からです)

 

 

 

10 カーテン~ポアロ最後の事件(ポアロ:1975)

【あらすじ】

 友人のエルキュール・ポアロから誘いを受け、再びスタイルズ荘に訪れることになったヘイスティングズ大尉。しかし歳月は流れ、老朽化したスタイルズ荘と老いた2人。

 ポアロヘイスティングズに5つの事件ファイルを見せる。殺人事件で犯人が逮捕されている事件もあれば、自殺と断定されたものもある。しかしポアロは、この5つの事件はひとりの人物によって行われたものと説明し、そしてその「X」はスタイルズ荘に滞在しているとも告げる。しかしそれが誰だかは明かさないポアロ。そして不穏な空気が流れる中、事件が起きる。

 

 【感想】

 ポアロ最後の事件。但しこの作品が書かれたのは1943年と言われている。「五匹の子豚」など、人間関係のミスディレクションを中心とする傑作を連発していた時代に、後期の作風を、そして21世紀を見越したような作品を書いたことにまず驚かせられる。

 私があまり好きではない(笑)ヘイスティングズの語りも、年老いて落ち着いたものになっている。「ゴルフ場殺人事件」で思いを遂げたシンデレラ嬢も既になく、代わりに娘のジュディスがスタイルズ荘に滞在していて、なかなか難しい父と娘の関係を描いている。そしてその父親の感情が、1つの「事件」も引き起こす。この辺、ヘイスティングズの役割は昔とあまり変わらないのか・・・ とは言え、この「事件」が、ポアロが計画していたことを実行に移す後押しの1つになったであろう。

 そして「X」の正体。自分で手を下さなくても、周囲の人間の心に巧みに疑心暗鬼を植え込み、ある方向に導こうとする人間。一種の操りで、ミステリー史上数々の名探偵が対峙し、どうしても勝てない類いの人間。それは現代のネット社会で物事の一面だけで判断して、「正義」を振りかざして匿名で相手を「断罪」する(私も含めた)一般市民とも通じるものもある。昔から現代まで、自分の周囲に必ずいて、場合によっては自分が無意識にそのような存在になっていたかもしれない人間。

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 ポアロは犯人を知っていたが、それを明かすことなく死んでしまう。困惑したヘイスティングズに、4か月ほどたってからついにポアロ最後の告白書が届く。

 逮捕されない「悪」。このままでは、その「悪」が増幅され、被害者が拡大していく。その時名探偵がとる道は何か。ポアロは「オリエント急行の殺人」で裁判官の役割を果たした。ではこの「犯人」に対してはどのような役割が必要なのか。

  クリスティーは特に後期、犯人の動機について様々な考察を行い、そして提示してきた。またちょうど、クリスティーが本作品を書いてから発表するまでの間、エラリー・クイーン「悪の起源」で、本作品と共通すると思われる「悪」と対峙し、クイーンなりの「悪」への対応を描いた。クリスティーとクイーン。巨匠2人がたどり着いた「悪」は、21世紀に向けた現代への「予言」だったようにも思える。 

 本作品の舞台、懐かしい再訪だったはずのスタイルズ荘をクリスティーポアロ最後の事件の舞台とし、そこに究極とも言える「悪」を用意させた。ポアロにとって、そしてクリスティーにとって、スタイルズ荘は「ライヘンバッハの滝壺」だったのかもしれない。

 

 クリスティーと共通する(?)クイーンが描いた「悪」

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