小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

16 峠 (1968)

*こちらも味わい深い新装版の表紙

【あらすじ】

 長岡藩7万4千石の家臣に生まれた河井継之助は、幼い頃から腕白で負けず嫌いな性格だった。江戸に遊学した際は、酒を飲んだり遊女と戯れたりと、自適の日々を送っていた。佐久間象山を始め幾つかの塾を通うも、講義はまともに受けず、保管されている本を精読するなど、自らの基準に基づいた勉学で教養を高めた。

 

 そんな折に黒船来航が起きる。長岡藩主で幕府老中でもあった牧野忠雅は家臣に意見を求めると、継之助が建策した藩政改革論が藩主の目に留まる。継之助は江戸から長岡藩に戻されるが、藩上層部からの反感は強く、結局何もできなかった。改めて見聞を広げるために、尾中松山藩山田方谷を訪ねて教えを乞う。最初は農民上がりの方谷を軽んじていたが、方谷の言行一致の振る舞いと、実績を上げている藩政改革の深く心酔して、大きな影響を受ける。

 

 幕末も押し迫ってようやく、継之助は郡奉行となり、藩政改革を主導する権限を手に入れた。大政奉還から鳥羽伏見の戦へと進む中、長岡藩は譜代の名門として新政府軍に付くことはできず、さりとて幕府軍は先が見えているため、公武周旋を目指す。そのために新政府軍も持ち得なかった、連発機能を有するガトリング砲や、巨大な殺傷能力を発揮するアームストロング砲など、当時の最新兵器を備え、力を背景に長岡藩の意向を通そうと試みる。

 

 

 河井継之助ウィキペディアより)~子供の頃見たとき、中村雅俊と思いました(^^)

 

 新政府軍が迫る中、長岡藩は軍隊が領内に入ることを拒み、中立を保ちながら公武周旋を申し出る。しかし新政府軍は「正論」に業を煮やして、味方で無ければ敵と断定し、苛烈な北越戦争が開戦した。最新兵器を揃えた長岡藩は当初は新政府軍と互角に戦うが、数に圧迫され徐々に押され気味になる。長岡城を奪われ、一度は奪還するが戦争の最中に継之助は負傷して長岡藩の戦意は衰えていく。そして長岡城は再度陥落して、継之助は敗残の兵として会津に落ち延びる。

 

 八十里峠を越えて会津藩領に入るが、継之助が戦争で受けた傷は破傷風となって、手遅れの状態になった。そして自分が入る棺を見ながら41歳で死去。地元長岡では継之助を賞賛する声がある一方、強引な藩政改革や、郷土を焦土に至らしめた政策に反感の声も多く、墓は何度も倒されたという。

【感想】

 合理的な思考を持ちながらも、譜代大名で老中職を担う家柄の藩に生まれた河井継之助司馬遼太郎は「最後の武士」をテーマにしたと言っているが、本来ならば新政府の中でも重責を担う識見を有していながら、藩に殉じて「公武周旋」の枠から抜き出すことはできなかった。敢えて言うならば、外様大名ながら公武合体の立場を抜け出せずに、勤王の志士を弾圧した土佐藩山内容堂を想像させる。

 長岡藩に生を受けた者は自藩から外に出る場合、三国峠などの「峠」を越えなければならず、それは冬になると特に辛く厳しい。河井継之助は地理的にも政治的にも、ついに抜け出すことはできなかったことが、タイトルの「峠」に重みを加える

 物語の前半は「最後の武士」らしくない人柄を見せる。江戸に遊学に来ても格段勉強する様子はなく、ちょっとした遊び人風。但し自分の主義主張は明確で、それは例え師匠であろうが上司であろうが、決して曲げない。「耐え忍ぶ」武士像からも外れている印象を受ける。

 同じように、強引な藩政改革を行なって周囲の反感を買うも、決して譲らない。権力を持ってもそれを私とせずに、武器の調達に充てる人物。本作品と対照的な性格の「花神」の村田蔵六が、同じく戦費調達に苦心して江戸城の芸術品を品定めする姿を思い出す。

 

 *映画「峠」で、役所広司が掃射するガトリング砲(峠HPより)

 

 大抵の人間は、相手も持っていない最新兵器を揃えたら、これを使いたくなるはず。武力中立によって公武周旋を標榜するも、新政府軍は信用しない。河井継之助と会談して決裂した新政府軍の武将(岩村高俊)に対して、司馬遼太郎の筆は容赦がない。しかし新政府軍から見ると、領内に入ることを拒み、兵器は備えてやる気満々の相手に対して、信用しきれないのはやむを得ないだろうとと感じてしまう。

 結局戦いは避けられず、長岡藩は焦土と化し、継之助は死後も郷里の人々から恨まれたという。それは同じ越後から生まれた直江兼続が、関ヶ原の戦いによる対応で減封処分を受け、後に米沢藩士から恨まれた事実を思い起こさせる。貧窮に陥った米沢藩は苦難の中から上杉鷹山財政再建を行ない、後に日銀総裁を3人も輩出した。対して長岡藩も苦しい中から「米百俵」の精神で、後に山本五十六から田中角栄に連なる、優秀な人物を輩出する。

 そして河井継之助直江兼続の2人に、もう1つ共通項がある。老中職も務めた譜代の名門と、軍神謙信の後継者という主君が、簡単に恭順できない立場を理解して行動し、後に受ける非難を全て自分が被ったこと。2人共その真意は語られないが、語らない姿こそが「最後の武士」と呼ばれるに相応しいと感じる