小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

14 賢帝と逆臣と 小説・三藩の乱 小前 亮(2014)

【あらすじ】

 明王朝を倒すも命を落とした李自成李厳に「いわく」がある李基信。その才能を見出され、清国の間諜組織を首領、趙思才の指示のもと「潜入部員」として活動する。趙思才は、李基信をまずは台湾に潜入させた。台湾を支配する鄭成功東インド会社の進出を防いで明の再興に尽力し、明の王族から王の姓である「朱」を賜り「国姓(性)爺」と呼ばれていた。鄭成功が亡くなると、次は江南の雲南藩を統治する呉三桂の元に潜入し、何年もかけて側近として仕えることを命じられる。

 

 呉三桂は元々明国の精強部隊を率い、女真族の侵入を防ぐ使命を担っていた。北京を包囲した李自成からは味方に加わるように誘われ、反対に李自成を倒して自らが皇位に立つチャンスもあった。しかし愛妾の陳円円がさらわれたと知ると、万里の長城の東端にある山海関を開いて、清の騎馬軍団を中原に入れてしまう。そのため女真族による清建国に力を貸したとして、漢民族から非難の目を浴びていた。結果、清国からは雲南省を与えられるも、今はビルマに逃げ込んだ明の残党狩りをする立場に。

 

 清は初代皇帝ヌルハチの子ドルゴンが幼少の皇帝フーリンを擁して清を建国したが、その後ドルゴン、フーリンが立て続けに亡くなり、17歳の玄燁康煕帝)が即位する。玄燁は頭脳明断だが線が細いため、歴戦の勇士で輔政大臣のオボイは皇帝を軽んじていた。玄燁は内なる声と葛藤しながら、オボイを油断させて一族を一網打尽とする。オボイの死罪は免れないと思われたが、玄燁は身体に負った多くの傷を見て、建国の功臣として死は免じた。家臣は皇帝の徳と威厳に服し、玄燁は危機を自らの力で脱した。

 

  *若き康煕帝ウィキペディア

 

 江南地区は雲南呉三桂を筆頭に、広東尚可喜福建耿精忠漢人が、明から清に寝返った見返りとして支配していたが、玄燁は三藩を清の直轄にすべく目論んでいた。高齢の尚可喜が隠居を願い出た際、息子への禅譲を許さない。乱を招きかねない判断に多くの家臣は反対するも、玄燁は妥協する気持ちを抑えた。

 

 朝廷の決定を知った呉三桂は、明日は我が身と考え、悩んだ未に三藩で連携して清に兵を挙げる。最初は反乱軍の勢いが勝り玄燁の立場は苦しくなるが、冷静に戦況を分析すると、反乱軍の兵力に民の支援が広がっていないことがわかった。

 

 呉三桂の軍勢は長江に達した。長江を渡り中原に押し出すと期待した部下たちを前に、呉三桂はしばらくこの地で地盤を固めると伝える。土気を落とす兵たちの中で、李基信は禁句とも言うべき台詞を吐く。「あなたは山海関を開いたじゃないですか」と。しかし呉三桂は動かなかった。

 

   *三藩の乱 関係図



 

【感想】

 本作品の主人公は後に康煕帝と呼ばれる玄燁。あらすじには記さなかったが、宣教師のアラン・シヤールから寝る間を惜しんで科学や数学などを教わり、西洋技術を基礎から学んで政治に生かし、より良き治世を行おうと努力する。

 

 そこに李基信という「狂言回し」が登場する。本作品の直前の時代を舞台とした小説「 十八の子(十八+子=李自成と李厳」は、明を滅亡に追い込んで「」を建国した李自成が、理想が叶わぬまま命を奪われるまでを描いている。作品は子の李基信が新たな人生を踏み出すところで終わっているが、本作品の李基信は斜に構えてスパイらしからぬ憎まれ口をたたき、前作品のイメージとは繋がらない。そして両親の仇と思われる呉三桂や清に対して、感情を表す訳でもない。

 そんな性格が康煕帝に愛されるが、側で仕えることを断るのは、親譲りの反骨精神か。勘ぐって見れば李基信の特異な性格は、呉三桂が決断「できない」場面で、家臣たちが押し黙る中、「あなたは山海関を開いたじゃないですか」と言わせるように、逆算して造型したように感じる。       

 もう1人の主人公である呉三桂は、大事なところで決断をしない「残念な」人物として描かれる。冒頭、清の命令でビルマに遠征して明王朝の残党狩りを行なう場面から始まり、雲南省の支配で満足しつつも野望が頭の中で持ち上がり、そして決起するも大事なところで自重してしまう。天下を望む機会が2回巡ってきたにも関わらず、いずれも天下を望む決断には至らなかった。

 しかしこれも呉三桂の宿命。民衆からは「女(陳円円)」 のために漢民族を売ったと思われたため、仮に北京を占領しても人心は得られなかっただろう。その後呉三桂は自らの死期を悟り慌てたように「」を建国して皇帝と名乗るが、間もなく病死してしまう。そして8年がかりで三藩の乱は鎮定鄭成功亡き台湾も2年後の1684年に制圧して清の地盤は確立した。

 

  呉三桂ウィキペディア

 

 あとから考えると、この時の康煕帝の決断は大きな岐路だったのかもしれない。台湾を制圧した同年、ロシア帝国ピヨートル大帝が南下して侵略の姿勢を見せた。これに対しで防御の軍勢を出したが、三藩の鎮定をしていなかったら、明の滅亡に至らしめた「北虜南倭」が、ロシアと漢民族によってもたらされたかもしれない。

 現実にはネルチンスク条約を結ぶことで国難を回避し、康照帝は60年に及ぶ治世を大過なく治め、中国史上三大皇帝の筆頭として名を残した。そして清国は5代雍正帝を経て6代乾隆帝崩御する1799年まで、およそ150年に亘り、最盛期を謳歌する。

 

 しかし19世紀に入ると、中国は歴史上類を見ない「塗炭の苦しみ」を味わうことになる。

 

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