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【あらすじ】
華南にある小作農の家に生れた朱元璋は醜面で目立つ一方、相手の心を読む洞察力に長け、子供の頃から「皇帝」と呼ばれていた。しかし飢饉で両親を亡くしたために困窮し、托鉢僧となって命を長らえる。
1351年、白蓮教徒による紅巾の乱が勃発した。僧侶では抑えられない覇気を持つ朱元璋は、幼馴染みの湯和の勧めもあって紅巾族に参加する。当時国家は元が支配していたが政道は腐敗し、悪政によって民を苦しめていた。目的は1つ「弱き者のために」。
朱元璋は紅巾族を率いる郭子興に見込まれて頭角を現わす。托鉢僧として流浪した朱元璋は、各地の事情と人情の機微、そして敵か味方か、味方ならばどれだけ協力してくれるかを見極める眼力が備わっていた。その能力は兵の徴兵や食料の調達などで活かされる。
当初は朱元璋を見込んで養女の馬氏(後の馬皇后)を嫁にあてがった郭子興だが、次第に存在が疎ましく感じてきた。朱元璋はその意を感じ、湯和と同じく幼馴染みの徐達や女だてらに武芸に秀でる花達らわずか24名を率いて、別働隊として南伐に赴く。戦いの中で勇猛な武将の常遇春や、器量を有する儒者の李善長が参じてくる。李善長は同じく農民から天下を獲った劉邦になぞらえて、朱元璋を天下取りへと導く。
亡くなった郭子興の勢力を吸収し、朱元璋は本拠を豊穣な長江の南の江南に移したのは、托鉢僧を辞めた5年後のこと。「朱元璋の張良」と言われる軍師劉基や儒学者として高名な宋濂らが招聘されて、国家の体裁も整ってきた。しかし北方は元帝国が健在。そして江南は西に紅巾の陳友諒が巨大な勢力を有し、東には非紅巾勢力の張士誠が「大漢国」を標榜し、両勢力に挟まれた朱元璋も含めて三分割されていた。
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軍師劉基の計は、まず紅巾族の陳友諒を叩くこと。しかし陳友諒が先に朱元璋を攻めてくる。防禦を任された花雲だったが、紅巾軍を率いる「双刀趙」と呼ばれる二刀流の勇者の趙晋勝に敗れ、花雲は殺害される。
劣勢に立たされた朱元璋に、陳友諒は60万の軍勢と見上げるような巨艦を率いて攻撃を仕掛けてきた。軍勢が20万で小型船が主体の朱元璋は、劉基の見立てによって風向きが変わるまで敵をやり過ごし、3日目に風向きが変わると、決死隊による火船七艘を突入させ、密集した巨艦を炎上させて勝利に導いた。
混乱の中で陳友諒は矢に射貫かれて命を落とす。間もなく張士誠も征伐し、朱元璋は北伐を待たず明を建国し洪武帝として即位した。同時に内乱で混乱する元も攻めて北方に撤退し、中国全土を統一する。
*「糟糠の妻」で、皇后となってからも賢夫人として知られる馬氏(ウィキペディア)
【感想】
小作農出身で幼い時から食べ物に困り、各地を流浪した過去を持つ異相の人物。そこから皇帝へと大出世を遂げる朱元璋は、日本での豊臣秀吉を思い浮かべる。しかし朱元璋は托鉢僧からわずか5年ほどで数万の兵を率いる大勢力となり、そのまま中国統一を成し遂げてしまったため、秀吉における「信長の家臣」時代は存在しない。朱元璋は苦労した経験で培った人を見る眼力と、「弱き者のために」を合い言葉として掠奪はせず、中国の皇帝に必要な「徳」を持って人心を得ていく。
本作品では朱元璋を、陳友諒を破って覇権を確立した「鄱陽湖の戦い」(1363年)をピークに描いた。鄱陽湖の上流にある古戦場、赤壁の戦いを思い出させる「火計の策」によって大軍を打ち破り、天下の趨勢を決定させたこの戦い。以降、中華統一に至るのは家臣の徐達などの活躍が大きい。
しかし本作品でもその「伏線」は描いているが、朱元璋は皇帝になってから猜疑心が強くなり、創業の功臣たちは次々と「狡兎死して走狗烹らる」運命に遭う。更に朱元璋が昔僧侶であったことを揶揄する「光」「禿」「僧」などの字を使っただけで殺害される「文字の獄」を初め、数多くの粛清も行い何万もの人命が犠牲になった。秀吉もそうだが、洞察力があって若い頃から苦労した人は、人が「見えすぎる」のかもしれない。
武将から皇帝へと朱元璋の立場が変わると、皇帝として育てた功臣の李善長(のち自害)の意図を超え、史上最強とも言える力強い皇帝に「化け」てしまう。そんな李善長と、腹心としてライバルの「朱元璋の張良」劉基との会話が興味深い。李善長が「陛下の強さは、人の目を気になさらない」と指摘するも、劉基は「気になさっていないのは、後世の目だ」と儒学者らしく訂正する。重ねて皇帝を支える理由を「それがこの国のためだからだ」とこともなげに答える。
皇帝に即位した朱元璋に肖像画が届けられた。その顔は醜面な自分と似ても似つかない、温厚で風格のある姿だった。別人にしか見えない画に不快に思う朱元璋に対して李善長はその理由を「刺客に標的となる可能性も否定できないゆえ、ご尊顔を写すことははばかれたのです」と整えた言葉で答えたのに対し、劉基はそれを「それが権力というものです」と一言でまとめた。法家の流れを汲む李善長と、即物的な思考を必要とする軍師・劉基の違いを、端的に表現していると感銘を受けた。さしずめ李善長は金地院崇伝で、劉基は南光坊天海か。
なお朱元璋は秀吉と同じく「糟糠の妻」馬氏を、先に亡くなるまで大切にして、馬氏の言うことは良く聞いたという。しかし朱元璋は40人を超える子を生んだことが、秀吉と大きく異なった。
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