小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

1-2 空海の風景② (1975)

【あらすじ】

 真言密教の法統正嫡として帰国した空海。しかし日本では、いち早く帰国した最澄がもたらした密教が、宮廷で評判を呼んでいた。最澄の目的は天台宗だったが、「ついで」に得た断片的な密教最澄の意図から離れて注目を集めてしまう。そんな折に空海がもたらした真言密教によって、最澄は自らの密教が粗漏であり、密教を学び直そうと考え、空海の門を叩く。実直な人柄に触れた空海最澄への悪印象を改め、以後両者の親交が始まる。

 

 ところが天台宗の教義を体系化することを優先する最澄は、書や弟子を通して密教の伝法を受けようとして、空海の不興を買った。密教の真髄といわれる経典の借用を願い出るに及んで空海は我慢できず、さらに最澄の愛弟子の泰範が空海に魅せられて最澄の下を出奔する事件も重なり、両者は絶縁するに至った。

 

  最澄ウィキペディアより)

 

 帰国後の空海真言密教の体系化に尽力しつつ、唐に比べて未開の段階にある日本に文明を定着させようと、超人的な活躍をすることになる。医療施薬から土木灌漑、果ては文芸・美術・思想哲学養に至るまで、その後の日本文化の礎となる部分をほとんど独力で整備した。

 

 特に空海の描く「書」は、王羲之から顔真卿風、そして飛白体など、当時の日本では噂にしか聞けなかった書体を自在に操っていた。薬子の変を平定して権力を確立した嵯峨天皇は、長安で評判を得た空海に対して様々な教授を願い出て、かつての最澄のように空海は権力の背景も得ていく。

 

  *風信帖(ウィキペディアより)

 

 空海紀伊国南部の高野山密教思想を体現した、高野山寺の建設に着手した。現代まで残る高野山の威容は、その端々まで精妙な論理によって構築されている一方、どこか大唐の長安を思わせるものがある。

 

 空海は早くから自分の死期を察し、弟子たちにも予告することで、その気を引き締めさせた。そして醜態をさらすことを拒み荘厳な死を遂げることを望み、五穀を断って肉体を衰えさせた上に、静かに死を迎えた。

 

 

【感想】

 空海と対比して「清廉君子」に相応しい、実直な性格を持つ最澄が現われる。そんな最澄を翻弄するかのような空海密教という「奥義」を極めるため、独自の理論で山野を巡り修行した空海から見ると、遣唐使で授かった様々な経典の中に「紛れ込んでいた」密教経典しかもたない最澄を朝廷が有り難がるのは、心底にわだかまりが残る。密教をほぼ独学で極めた空海は、桓武天皇の篤い庇護を受けた最澄に対し、羨望も交えて他の宗派にも声をかけて「天台包囲網」を形成したかのように思える。

 しかし司馬遼太郎は「聖人」空海のアクの強さを描くと共に、最澄の立場も慮った描写をしている。この対立は(密教分野に限るが)この時は明らかに空海に軍配が上がる。しかしその後、最澄がもたらした天台宗は、弟子たちが教義を広げ、鎌倉新仏教を生みだす余地を残して興隆を続けたのに対し、真言宗は「創業者」空海が余りにも偉大すぎたために、発展する余地を無くしてしまった。

 弘法大師空海が成し遂げたことは、本当に「天才」に相応しく多岐に、そして現代に至るほどの影響力を持っている。特に灌漑施設書画に関しては、日本の歴史を通じて突出した才能を見せた。また温泉発掘については弘法大師の伝説が全国各地に残っているのは、その真偽も含めて驚嘆に値する。

 書については日本では随一の芸術家であり書家でもあった嵯峨天皇が、唐の書と帰国してからの書では書体がかなり違うと指摘したところ(それを指摘するのも凄いが)、空海はその土地の雰囲気で書体も変わるといい、唐の雄大な国土と日本での狭い環境を指摘したという。

 空海の書は、玄人には国宝「風信帖」の評価が高い。最澄への私信として伸びやかな書の中に空海の志操が感じられると思うが、私個人は様々な書体が入り交じって視覚的に伝えようとする「益田池碑銘」や、儒教道教・仏教の中で仏教が一番優れているとする論文とも言える国宝「聾瞽指」(ろうこしいき)の丹念で力強い筆致が続く書体に魅力を感じてしまう(以前国立博物館空海を展示する特別展を見に行ったが、しばらくその場から離れられなくなった)。

  *益田池碑銘(ウィキペディアより)

 

 司馬遼太郎高野山の広大な街並みを見て長安を感じ、そこから「(空海は帰国後淋しかったのではないか)と(中略)妄想が湧いた」と記している。日本では突出的な活躍をした空海だが、つまりは相交わるに適当な人物が日本には存在しなかった。しかるに唐では、空海の能力を見事に判断し、「自分の水準と似たひとびとを持つことに不自由をしなかった」。そしてこの想像も空海の心の内の真実とすることではなく、「風景」の1つとして司馬遼太郎は記している。

 本作品の最後はこう結んでいる。

空海の死は長安青竜寺にも伝えられ、報に接した青竜寺では一山粛然とし、ことごとく素服を着けてこれを弔したといわれる」

 

 本作品では、空海の帰国後は触れていなかった青竜寺を、敢えて最後に登場させた。ここには司馬遼太郎が感じた、空海の「想い」に報いる気持ちが込められている。

  金剛峯寺HPより